2006年6月8日(木)「しんぶん赤旗」

北海道綴方連盟事件で命を奪われた教師とは?


 〈問い〉 5月20日付「小説『銃口』のモデルは?」の中で、北海道綴方連盟事件で死亡した人がいると知りましたが、どんな方ですか?(京都・一読者)

 〈答え〉 戦前・戦中のきびしい教育統制下、子どもたちを心から愛して、未来に希望をつないだ教師たちがいました。北海道綴方教育連盟事件で、死亡した横山真(まこと)(当時、十勝郡・大津小)もそうした一人でした。横山は、新婚2カ月目の1940年11月20日、治安維持法違反で検挙され、2年半の長期勾留中、危篤状態におちいり仮出所、小康をえたのもつかの間、43年10月12日、腸結核のため亡くなります。28歳の若さでした。

 横山は、旭川師範学校を34年に卒業し、根室の厚床(あっとこ)小学校に勤めます。厚床の周辺は未開拓な原野で農民の生活は悲惨でした。長期欠席、欠食児童などを目前にして、若く多感な青年教師は悩み、生活のありのままをつづらせ、子どもたちに生きる意欲をもたせようと、35年に結成された道生活綴方連盟の創立にもっとも若いメンバーとして参加していきます。同年、横山は文集「ぶし―原野にきっと春は来る」のあとがきに要約こう書いています。

 「先生は月曜からびっしり一週間原紙を切った。指先までちぢみ上ってしまいそうな午前二時三時の夜気の中で、鉄筆をやすりの上に走らせながら、先生は色んなことを考えていた。暮から色々な出来事が先生のまわりにも起った。ほとんど耐え得ぬ苦悶(くもん)すら味わってきた。苦しくなれば先生はきまって民吉たちの綴方を読んでみた。『こんなことで苦しむなんて、何て意気地のない奴だ』と先生はいつも民吉たちの綴方から叱りつけられるような気がして、そうだ体のつづく限りはがんばるんだ。そう思えば不思議にねむくも寒くもなくなる先生だった。民吉たちよ、お前たちはなぜこう都会の子どものように、明るい生活が恵まれてこないのか。暖かい生活がなぜ訪れてくれないのだ。どうしたら楽になれるのだ。それは先生にもわからない。だがこれでいいのか。これだけで魂の底まで苦しみ抜いたと言われるのか。苦しみの中をガスの中を、じっと耐えてゆく生活の何時かは原野にだって春が来るにちがいない」

 旭川師範の恩師で自身も「生活図画教育運動」で弾圧された熊田満佐吾(まさご)は、生前の横山からこの文集を送られ、「この子どもたちに対するひたむきな愛情はどうだろう。このあとがきを読むと私は今でも感動を覚える」と書いています。

 旭川師範の学生時代、横山は、美術部の委員長をし、道展で入選するほどの描き手で、生活綴方と生活図画の両面にまたがって実践するなかで、命を奪われたのです。元北海道教育大学教授の故小田切正さんは「このように優れた教師である横山らの掘り起こしと顕彰を今後いっそう行わなければならない」といっています。(喜)〔2006・6・8(木)〕


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