2006年6月21日(水)「しんぶん赤旗」
戦前の日本共産党員・古川苞とは ?
〈問い〉 戦前の日本共産党員、古川苞(しげる)とはどんな人ですか?(東京・一読者)
〈答え〉 日本共産党の戦前史には、野蛮な天皇制国家の専制支配と侵略戦争に反対して勇敢にたたかい抜いた、多くの若き活動家の名が刻みこまれています。古川苞(1906―35年)もその一人です。
古川は、主に東京・東部の葛飾、江東、江戸川、墨田、台東、足立で活動。34年、4度目の検挙のとき、特高の拷問に一言もしゃべらず、60日間のハンストをし、“蛎(カキ)男に警視庁も悲鳴”(読売新聞昭和9年7月19日付)と報道されました。腸結核で重体となり仮釈放、日本共産党再建の志を最後まで捨てずに『資本論』の学習をしつつ、35年12月15日葛飾区で死去しました。29歳でした。
古川の生涯については、作家の山岸一章が研究し、『不屈の青春』(新日本出版社)にまとめています。山岸はその中で、「黙々と地味な仕事に骨身を惜しまず自己犠牲をつらぬいた」人として彼を讃えています。
古川は、北海道小樽市に生まれ、水産技師だった父について宮崎、東京、山形を転々、23年に山形高校に入学、24年、学生社会科学連合会(学連)結成に呼応して校内に亀井勝一郎らとともに山形社会思想研究会を結成しました。26年、東京帝大文学部に入学すると、新人会に加入、本所柳町元町の東大セツルメント(=貧困地区に託児所などを設け生活向上に助力する活動)で市民学校の講師をしています。当時、東京モスリン亀戸工場労働者で飯島喜美らとともに働いていた伊藤憲一(後に党衆院議員、大田区議)は、古川の教えを受けた一人で、「彼の真剣な態度は、生徒の信頼を一身に集めていた。…講義の終わりに、戦争はなぜおこるかという質問をだして討論をやらせた」と語っています。(前掲書)
28年2月1日「赤旗」創刊と同時に読者になり、3・15事件で検挙、翌29年2月、日本共産党に入党、同年の4・16事件でも検挙され、拷問で病気が悪化、健康を回復すると、弾圧をぬってひそかに「赤旗」印刷の仕事につきます。そのころは、中国東北部に侵攻を開始し(満州事変、31年9月)、国内では、戦争に反対する日本共産党を容赦なく弾圧した時期でした。
小林多喜二の虐殺(33年)につづき、34〜35年には、高島満兎、高橋とみ子、田中サガヨ、飯島喜美(いずれも24歳)らの命が奪われました。野呂栄太郎(33年11月検挙、34年2月、33歳で絶命)、宮本顕治の検挙(33年12月)後の35年には党中央の機能が失われるなかで、古川は実質的な党東京市委員長として「党を死守してたたかった、もっともすぐれた闘士」(前掲書)でした。(喜)
〔2006・6・21(水)〕