2006年6月24日(土)「しんぶん赤旗」
50年代、米国内の「赤狩り」 どう考えますか ?
〈問い〉 映画「グッドナイト&グッドラック」を見ました。感動しましたが、同時に、一つわりきれない思いも残りました。それは、攻撃された人を弁護する弁を「共産主義とは無縁だから」としている点です。これをどう考えますか?(東京 一読者)
〈答え〉 50年代、米国の「赤狩り」のなかでおこなわれた個人の思想調査や、政治的立場を理由にした職場からの追放、共産主義者と思われる知人の名前を明らかにすることの強要などは、明らかな人権侵害です。このような行為が、個人の尊厳を土台とする民主主義の原理に反することは明白であり、対象となっている人物が共産主義者であるか否かにかかわらず、許されるべきものではありません。
この映画の主人公の「共産主義と無縁の人まで弾圧するのは許せない」という正義感の裏側に、もし仮に「共産主義者は弾圧されても仕方がない」という考えがあるのであれば、それは批判されるべきでしょう。
しかし、当時の「赤狩り」のなかで迫害を受けた映画人のほとんどは、共産党員ではない進歩的・良心的な人々でした。そういう人たちが、「共産主義者」への弾圧を不当なものとする立場――国家が個人の内心を調査すること自体が米国の憲法に違反するという立場から、「密告」を拒否し、良心をつらぬいてたたかったのです。この映画の主人公の勇気ある行為は、「赤狩り」を進めた側の偽りを暴くことを通して、そうした人々を励まし、共産主義者への弾圧そのものの不当性を明らかにするものでした。
ドイツのニーメラー牧師の「ナチ党が共産主義を攻撃したとき、私は共産主義者でなかったから何もしなかった。ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。私は社会主義者ではなかったから何もしなかった。…ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動したが、それは遅すぎた」という有名な言葉があります。このように、国家権力による共産主義者への弾圧は、良心の自由そのものへの弾圧へとつながってきました。
また、支配者にとって都合の悪い思想や言論がすべて「共産主義」のレッテル張りの対象とされた事例も、洋の東西を問わず多数あります。たとえば、アパルトヘイト体制下の南アフリカでも、チリや韓国の軍政のもとでも、自由や人権を求めてたたかった多数の人々が、「共産主義者への取り締まり」の名で不当に投獄され、また命を奪われています。
この事実は、「赤狩り」をすすめた側の宣伝とは逆に、共産主義者こそが自由と民主主義のもっとも勇敢な守り手であったことを教えています。だからこそさまざまな国で、「共産主義とのたたかい」の名による人権侵害に、広範な心ある人々が共同して立ち向かってきたのです。(哲)
〔2006・6・24(土)〕