2006年6月29日(木)「しんぶん赤旗」
24歳の命を奪われた高橋とみ子とは?
〈問い〉 戦前、反戦平和のたたかいの中で命を奪われた伊藤千代子。その千代子が学んだ仙台市の尚絅(しょうけい)女学校の後輩に高橋とみ子という女性がおり、その人も24歳で命を奪われたと聞きました。どんな人だったのですか?(宮城・一読者)
〈答え〉 1934年、治安維持法による暴圧の中、宮城の地で日本共産青年同盟に加わり活動していた高橋とみ子は、特高警察によって、24歳の命を奪われました。
32年に結成された直後のプロレタリア美術家同盟やエスペランチスト同盟にも加わっていたとみ子は、当時仙台市内にあった片倉製糸や旭紡績の女工たちに、洋裁や生け花を教えながら、日本労働組合全国協議会(全協)仙台支部の組織化をすすめていました。紡績工場の過酷な労働に怒りを込め、苦しい境遇にあった女工たちに心を寄せて、自身も女工たちと同じような地味な装いをする、心優しい人でした。
彼女が逮捕されたのは、34年10月20日、県内の留置場をたらいまわしにされたあげく、11月21日県北の中新田(なかにいだ)警察署で殺されました。警察は自殺と発表して、拷問死を覆い隠し、真実がわかったのは戦後になってからでした。
彼女が逮捕されたときの弾圧の背景には、28年3月15日や29年4月16日の全国いっせい弾圧を受けても不屈にとりくまれた運動がありました。32年には県内で125人が逮捕されましたが、それを乗り越える運動の新たな高揚が起きていたのです。それを根絶やしにしようと34年の大弾圧となったのです。
とみ子が運動に参加したのは、プロレタリア美術家同盟仙台支部の結成に参加した次兄辰夫の影響とともに、尚絅女学校の存在が大きかったものと推測されます。尚絅女学校はバプテスト系の学校で、進歩的開明的校風があり、20年代には、近代思想の高波の中で、社会主義・共産主義を自由に論ずる状況もあったといわれています。
とみ子が入学する2年前の28年、女子学生社会科学連合会第1回大会に同校も参加し、地方委員も出していました。とみ子の卒業時、教師排斥のストライキも起きています。
とみ子が虐殺された翌年と2年後、旭紡績の女工たちは2度にわたり賃上げと待遇改善をもとめてストライキに立ち上がり、一人の解雇者もだすことなく全面勝利しました。現実社会の矛盾とそこから生まれる要求に立脚した堂々たるたたかいでした。
毎年11月には、とみ子をしのび、そのたたかいを顕彰する墓前祭が開かれています。(遠)〔2006・6・29(木)〕