2006年7月19日(水)「しんぶん赤旗」
農地改革が戦後の高度成長の要因になったとは?
〈問い〉 日本共産党綱領の第2章(4)に、戦後の農地改革が「日本独占資本主義に、その発展のより近代的な条件を与え、戦後の急成長を促進する要因の一つとなった」と書かれていますが、具体的にどういうことでしょうか?(東京・一読者)
〈答え〉 戦前の日本では、耕地全体の約46%、半分に近い227万ヘクタール(町歩)が小作地で、自分は耕作せずに貧しい小作人から小作料をとり立てる寄生地主(農地の所有者)が農村で実権をにぎっていました。このことが日本社会の封建的な性格の基盤ともなり、日本の貧困の根ともなっていました。
戦後の農地改革によって、この地主制度は解体され、地主から取り上げた土地は実際にそこを耕している農民へと売り渡されました。そのことは、日本の社会と経済の全体に大きな影響をおよぼしました。不破哲三前議長の『新・日本共産党綱領を読む』では、農地改革が「労働力の確保と市場の拡大との二つの面から、大企業を中心とした日本経済の高度成長に道を開く役割をも果たしました」(133ページ)と述べています。
日本独占資本主義にとって、農地改革がもたらした「市場の拡大」には、少なくとも二つの内容がありました。
一つは、農民が地主からの搾取から解放された分だけ豊かになったことで、農村全体の個人消費が増えたということです。
もう一つは、小作農が地主への小作料を農産物の形態で収めることがなくなったことです。そのため、農民は自分が作った農産物のすべてを市場で売ることができるようになりました。これは、農村が全面的に商品経済のなかに巻き込まれたということを意味し、農機具、農薬の購入などの形でも独占資本の生産物が農村に入っていくことにつながりました。
「労働力の確保」という点では、農民が地主への隷従から解放されて、資本による雇用の対象となったことが重要です。
農民は土地を得て豊かになったとはいえ、一定の土地でつくられる農産物の量は、資本主義のもとでの工業生産の発展に見合うほど急速に増えることはありません。そのため、いったん商品経済に巻き込まれた農民は、「世間並み」の暮らしを維持するために兼業化するか、職を求めて都市に流入することになりました。
戦後の日本では、農村は不況の時にはある程度労働力を吸収するという「緩衝材」の役割を果たしながら、長期的には都市へと大量の人口を送り出し続けました。このような弾力性を持った労働力の供給源としての農村の存在は、日本の経済発展にとって非常に有利な条件の一つだったのです。一時期盛んだった「集団就職列車」などは、そのことを象徴する情景でもありました。(哲)
〔2006・7・19(水)〕