2006年7月30日(日)「しんぶん赤旗」
“銃弾一発も発せず”の首相訓示
イラク派兵・陸上自衛隊
武力行使の瀬戸際まで
小泉純一郎首相は二十九日、イラクから撤退した陸上自衛隊部隊の隊旗返還式で「一発の銃弾も発せず、一人の死者も出さずに帰国したことは日本国民、イラク国民にとって長く記憶に残る」と述べました。しかし、私たち日本国民が記憶すべきは、陸自のイラク派兵は「殺され、殺す」(小泉首相)ことを当然視した憲法違反の“戦地派兵”だったということです。
「自衛隊員でも、襲われたら殺される可能性はあるかもしれない。そういう場合に、たたかって相手を殺す場合がないとは言えない」―。小泉首相は、イラクへの自衛隊派兵を定めたイラク特措法案の国会審議で、こう答弁していました。(二〇〇三年七月)
その翌年、イラク南部サマワに派兵された陸自第一次派兵部隊の番匠幸一郎隊長は、派兵準備のための射撃訓練で「五―十年分の弾を一、二カ月で撃たせた。これ以上撃てないというぐらい徹底して撃たせた」と証言しています。
当時、首相が「殺され、殺す」ことを当然視していたのは、陸自の派兵が、米軍によるイラク侵略戦争に続く無法な軍事占領に加担するものであり、占領軍の一員として攻撃対象になるのは自明だったからです。
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実際、イラク全土が米軍と武装抵抗勢力との戦闘状態にある中で、陸自部隊は、対戦車火器や重機関銃などを携行し、かつてない重武装でサマワに展開しました。陸自の宿営地は、砲撃を防御するため隊員の居住施設をコンクリート壁と鉄板で固めるなど軍事要塞(ようさい)化。宿営地への砲撃は、陸自撤退までの約二年半の間に十三回にも上りました(表)。
〇五年六月には、陸自車列がサマワ市内を通過中、遠隔操作爆弾が爆発し、高機動車が破損、その直後に軽装甲機動車に乗っていた陸自隊員らが機関銃に実弾を装てんし、戦闘態勢を整えていたことが報じられています(「東京」〇六年七月十九日付)。
同紙は「十四年に及ぶ自衛隊海外派遣の歴史で実弾装てんが判明したのは初めて」とし、「政府は自衛隊の海外派遣を恒常化させる考えだが、いずれ発砲に至る日を迎えるかもしれない」と指摘しています。
小泉首相は隊旗返還式で「(イラクでの)経験と成果を踏まえ、ますます研さんを積んで活躍してほしい」と述べました。しかし、戦地での臨戦態勢という「経験と成果」を生かし、今後も自衛隊が海外で「活躍」するなどということはあってはならないことです。(榎本好孝)