2006年8月5日(土)「しんぶん赤旗」
原爆詩人、峠三吉とはどんな人?
〈問い〉 原爆詩人、峠三吉は日本共産党員だったと聞きましたが、どんな人だったのですか?(高知・一読者)
〈答え〉 「にんげんをかえせ」の詩で知られる峠三吉(とうげ・さんきち、本名みつよし、1917〜53年)は、反核平和のたたかいのなかで、国立広島療養所で手術中、36歳で世を去った日本共産党員です。
『原爆詩人・峠三吉』(新日本新書)の著者、増岡敏和は「青年期の葛藤を超えて、やがて共産党員となってたたかったことと、かれが核兵器廃絶にいのちをたぎらせたこととべつではない」と「ひたむきに正しく生きた」若い死を惜しんでいます。
三吉は、広島商業学校在学中から詩歌をつくり始め、卒業後、肺結核にかかり、25歳のとき、キリスト教の洗礼を受けます。5人兄姉のうち3人は戦前の社会主義運動や労働運動の活動家でその影響をうけて育ちますが、戦争中は主として抒情詩を書いていました。
45年8月6日、爆心地から3キロの自宅で被爆、ガラス破片による負傷でしたが知人の安否を尋ねて原爆投下直後の広島市内を歩き回り原爆症となります。
46年2月、進歩的学生を中心に民主的文化運動を戦後いち早く展開していた広島青年文化連盟に入会。広島文理大(現広島大)学生の共産党員、大村英幸らと出会い、まもなく連盟委員長に推され、文化運動のリーダーに。兄姉の反戦平和の運動にも思いをはせ、47年2月結成の広島詩人協会に参画し詩人として生きることを決めます。
49年3月、喀血(かっけつ)し意識もうろうとなるなか、三吉は友人をよび、大村らに持参してもらった入党申込書に記入。4月11日の日記に「共産党への入党手続き完了。印を押す。深い安堵」と書きます。三吉の入党は「アカハタ」(現「しんぶん赤旗」)で全国に紹介されました。
朝鮮戦争が始まると「アカハタ」の発刊は停止され、原爆反対は占領政策違反とされましたが、50年6月、党中国地方委員会はきびしい状況をついて、機関紙「平和戦線」第7号をだし、日本で初めて「原子爆弾をうけた広島」と題して惨状の写真を特集(5万枚発行)。三吉はこの紙面に「八月六日」という詩を本名で発表します。
三十万の全市をしめた/あの静寂が忘れえようか/そのしずけさの中で/帰らなかった妻や子のしろい眼窩(がんか)が/俺たちの心魂をたち割って/込めたねがいを/忘れえようか(「八月六日」終連の部分)
50年11月、トルーマン米大統領が、朝鮮戦争で原爆使用をほのめかしたのに際し、三吉は満身の怒りをこめて、療養所で『原爆詩集』25編中の18編を書きあげました。この詩集は、51年8月6日の平和大会とベルリンで開かれた世界青年学生平和友好祭に送られ、世界的な反響を呼びました。
02年、遺族から、謄写版刷りの『原爆詩集』や創作ノートなどの三吉の遺品が日本共産党本部に寄贈されました。(喜)
〔2006・8・5(土)〕