2006年8月9日(水)「しんぶん赤旗」
戦死した高校球児の嶋清一とは?
〈問い〉 甲子園の夏、高校野球の歴史には太平洋戦争に巻き込まれた球児たちの無念が刻み込まれていると聞きます。和歌山・海草中学の伝説の大投手、嶋清一とはどんな人だったのですか? ほかにも戦死した球児がいますか?(和歌山県・一読者)
〈答え〉 海草中学(現・向陽高)の嶋清一は、1939年の夏の甲子園大会で、準決勝・決勝の2試合連続ノーヒットノーランという偉業を達成した甲子園伝説の大投手です。
決勝戦のノーヒットノーランは、59年後の98年夏に横浜高校の松坂大輔投手が達成しましたが、準決勝、決勝での2試合連続ノーヒットノーランや、5試合完投してわずかに被安打8本という記録はおそらく破られることはないでしょう。
一方、打者としても4番を打って21打数11安打をマークし、三塁打を3本打つなど、まさに投打の中心選手として活躍しました。沢村がプロ野球草創期の速球投手であるならば、嶋は甲子園における伝説の大投手といわれるゆえんです。
卒業後は明大に進学しましたが、4年生となった43年に応召、45年3月19日、シンガポールを出港した護衛船に乗り込み、ベトナム沖を北上中に米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没し、戦死しました。
ほかにも戦死した球児は多く、戦前を代表する強打者で松山商業の景浦将は、32年の春に優勝、夏に準優勝して、立教大、大阪タイガーズと活躍し、45年5月20日、フィリピン・カラングラ島で戦死しました。
剛速球投手といわれた明石中の楠本保は、32年、33年の春連続で準優勝し、甲子園に6回出場して、通算15勝、うち8試合を完封し、ノーヒットノーランも達成、通算奪三振は200を超える大投手でしたが、43年中国・湖北省で戦死しました。28歳の若さでした。
さらに、戦前の東邦商業黄金時代の中心選手だった立谷順市、一宮中のエースの河合信雄、高松中のエースだった梶原英夫なども戦死しました。
高校野球が復活して60年、戦没球児たちをしのび、ふたたびその悲劇をくり返さない平和な日本にしたいものです。(鳥)
〔2006・8・9(水)〕