2006年8月16日(水)「しんぶん赤旗」
侵略戦争の歴史から何を学びとるか
歴史研究家・前参院議員
吉岡吉典さんに聞く
今年七月、中国の清華大学で「日本を破滅に導いた日本軍国主義のアジア侵略とアジア認識」と題して講演した歴史研究家の吉岡吉典さん(日本共産党前参院議員)に話を聞きました。
私は、明治以来の日本の侵略戦争からいかなる教訓を学び取るかをテーマに話してきました。中国で強調したのは、三つの点です。
アジアを蔑視
一つは、明治以来の戦争が日本に大国主義、アジア蔑視(べっし)、欧米崇拝をもたらしたという点です。
明治政府は、欧米に強制された不平等条約の改正という当時の外交課題を、アジアとの連帯ではなく、「脱亜入欧」の路線によって実現しようとしました。おくれたアジア諸国を見捨てて、欧米並みに植民地を保有する「一等国」になることによって実現しようということです。そのために、(1)アジアでの戦争に勝利する(2)領土拡張、植民地保有をめざす(3)不平等条約をアジア諸国におしつける―というやり方をとりました。日朝修好条規(一八七六年)につづいて、日清戦争後、中国に「下関講和条約」で、それまであった平等条約を消滅させて、「現に清国と欧州各国との間に存在する諸条約章程を以て該日清両国間諸条約の基礎と為すべし」と規定し、日清通商航海条約(一八九六年)で税制上、裁判上、欧米と同じ権利を認めさせました。
破滅的戦争へ
二つ目は、こういう大国主義とアジア蔑視が日本に世界とアジアの変化を見えなくさせ破滅的な戦争へとつきすすんだことです。
みぞうの惨害をもたらした第一次世界大戦後、世界は大きく変化していました。国際法上の戦争違法化の第一歩を踏み出し、レーニンやウィルソンが提唱した“民族自決”の考え方が世界に大きな影響を与え、アジアでも民族解放運動の高揚が起きました。
第一次世界大戦後のパリ講和会議に参加した中国も、大戦中に日本から強要された政治、経済、軍事の「二十一カ条要求」など侵略政策をきびしく糾弾しました。日本は完全に孤立無援となり、「平和会議からの脱退さえも考えたほど」(上村伸一著『日本外交史17 中国ナショナリズムと日華関係の展開』)孤立しました。
結局、日本は欧州列強との「密約」をたてに要求を押し通しますが、そのことが中国で「五・四運動」の引きがねとなり、中国人民のたたかいが大きく発展する一方、「(欧米)列国の日本に対する猜疑(さいぎ)を深める結果になった」(前掲書)のです。
大国主義とアジア蔑視にとらわれて大局的判断を誤ったことがどんなに悲劇的事態を招いたかを示したのが、日中戦争であり、太平洋戦争でした。
戦後の出発点
三つ目は、戦後日本はこれらの歴史の教訓をいかしたかについてです。いかしていないから、靖国神社問題などがおきるのです。日本が起こしたアジア太平洋戦争は、第一次世界大戦後の世界の発展に背を向けた歴史に逆らう反動的な戦争、ファシズム・軍国主義の戦争でした。
だから、米英中ソなどの連合国だけでなく、世界の反ファシズム勢力が力を出し尽くしてたたかいました。ドイツやイタリアの反ファシズム運動もその一部を構成したし、平和と民主主義を掲げた日本共産党の侵略戦争反対のたたかいもその一翼を担いました。
戦後の世界の出発点が反ファシズム、反軍国主義であり、それが国連憲章にまとめられ、ポツダム宣言に反映しました。終戦六十一年にあたって、この戦後の原点の意味を再確認することが重要ではないでしょうか。