2006年8月24日(木)「しんぶん赤旗」
戦争で多くのスポーツマンが戦死した?
〈問い〉 市田書記局長は先日の演説会で沢村投手のことを紹介していましたが、あの戦争では多くのスポーツマンが戦死したと思います。ほかにどんな人がいますか。五輪メダリストにも戦死者はいたのですか? (埼玉県・読者)
〈答え〉 沢村栄治投手は、プロ野球草創期にアメリカ遠征や巨人で活躍し、1936年のタイガース戦でプロ野球初のノーヒットノーランを達成した大投手です。
戦争が太平洋・東南アジアへと拡大した41年から42年にかけて、プロ野球選手の出征が急増します。沢村は3度の召集を受け、44年12月に南方戦線に向かう輸送船でアメリカ潜水艦に撃沈され、27歳で命を落としました。
川上哲治とともに熊本工業から巨人に入団して、強肩にして快速といわれた吉原正喜捕手は、44年9月、ビルマ戦線で戦死し25歳でした。
今年の終戦記念日に小泉首相が靖国参拝を強行しましたが、そこにある遊就館には、プロ野球「名古屋軍」の投手で、特攻隊で戦死した石丸進一が、「英霊」の名で遺品が陳列されています。同じ「名古屋軍」の後藤正も、野球帽をかぶり、ユニホーム姿で写っている遺影で並んでいます。この二人は、まるで「英霊」の象徴のように陳列されています。
こうしたプロ野球選手の戦死が明らかになったのは69人ですが、東京ドームの地下鉄後楽園駅よりの一角の石碑に「鎮魂の碑」として名前が刻まれています。
36年ベルリン五輪の棒高跳びで銀、銅のメダルを分け合った西田修平と大江季雄でしたが、大江はのちに、フィリピンの上陸戦で壮烈な死を遂げました。
そのほかに五輪選手の戦没者は、陸上8人、水泳13人、サッカー四人、ホッケー3人、ボート2人など、合計34人にのぼるといわれています。
侵略戦争は、多くのスポーツマンの夢を奪い、尊い命を奪いました。その非情さと“無念の思い”は、広島・長崎に原爆が投下され、終戦記念日となった8月に、いつまでも記憶されていかなければなりません。(鳥)
〔2006・8・24(木)〕