2006年11月11日(土)「しんぶん赤旗」
関東軍とはなんですか?
〈問い〉 関東軍とはなんですか? 日本の関東地方出身の兵士が多かったからですか?(島根・一読者)
〈答え〉 関所の東を指す「関東」という地名は中国、朝鮮、日本にそれぞれあります。中国では、山海関以東の地を関東と呼んでいました。
関東軍とは、一言でいえば、日本の中国侵略の尖兵(せんぺい)となった軍隊のことですが、その名は中国の地名からとったもので、日本の地名とは関係がありません。
日露戦争終結による1905年のポーツマス条約によって、日本はロシアから、関東州と呼ばれていた旅順・大連地区と、長春以南の鉄道と付属地の権利などを持ち主の中国はそっちのけの交渉で手に入れます。ここに関東総督府(翌年関東都督府)を設け、鉄道及び炭田、製鉄所などの経営のために南満州鉄道株式会社を設立し、この権益を守るために軍隊を派遣します。これが関東軍の前身です。
19年、関東都督府が関東庁になると同時に陸軍部は独立、関東軍司令部が旅順に設置されます。関東軍司令官は、本国から交代で派遣された1個師団と独立守備隊、旅順要塞(ようさい)司令部など在満陸軍全部を統括しました。
関東軍は天皇直隷の軍で、その使命は仮想敵ソ連にそなえ、その尖兵の役割を果たすこと、そのために「満蒙」にたいする支配を確実にすることにありました。
日本は、27年の「東方会議」で、「満蒙」を中国「本土」と区別して日本の権益のある特別の地域として日本の支配下におくという方針を決めます。(満蒙の「満」は満州の略で、中国の東三省、「蒙」は「蒙古」の略で、内モンゴルのこと)
この国策に沿って、関東軍高級参謀の河本大佐は、満州を支配していた軍閥の首領・張作霖爆殺事件(28年)を引き起こし、カイライ国家「満州国」建設を主導しました。
31年9月18日の柳条湖事件を契機に関東軍は「満州事変」を起こし、日本は本格的な中国侵略を開始しました。「満州事変」後には、関東軍司令官は駐満特命全権大使・関東長官を兼任し、34年12月からは関東州・満鉄付属地の行政権と満鉄の監督権を握り、満州国の軍事・行政全域に君臨しました。関東軍の兵力は毎年増えつづけ37年、5個師団、41年、13個師団編成に。その間、38年、日ソ両軍が衝突した張鼓峰事件、39年、日ソ間の局地戦争・ノモンハン事件でソ連軍に大敗。41年には、独ソ開戦に伴い関特演(関東軍特種演習)という名で70万の大軍を集結させ、対ソ戦に備えます。しかし、戦局が悪化した43年以降、精鋭部隊を南方に移動し、急速に弱体化、45年7月在満日本人男子25万人の根こそぎ動員を実施しますがソ連参戦によって一挙に瓦解し、多くの悲劇をうみました。(喜)
〔2006・11・11(土)〕