2006年12月7日(木)「しんぶん赤旗」

太平洋戦争開戦直前のハル・ノートとは?


 〈問い〉 「真珠湾攻撃は『ハル・ノート』で無理難題をいわれ、やむなくやった」という人がいます。「ハル・ノート」とは何ですか?(東京・一読者)

 〈答え〉 太平洋戦争の開戦は、アメリカが日本の要求を拒否し、ハル・ノートで、無理難題をいってきたのでやむをえなかったのだというのは“靖国派”がしきりに流している議論です。

 ハル・ノートとは、開戦(1941年12月8日)直前の11月、アメリカが日本に提示した提案で、交渉のアメリカ側の当事者であったコーデル・ハル国務長官の名前から名づけられたもので、内容は「中国及びインドシナからの日本軍の即時撤兵」などを求めたものです。

 “靖国派”のデタラメさは、このアメリカの要求は「今までの蓄積はすべて捨てろと言う事である」などと、日本の領土拡大の歴史を既得権として当然視して、日本の開戦を合理化していることです。

 しかし、ハル・ノートの中身は、ここで突然示されたものではなく、日米交渉にのぞむアメリカの基本態度として、最初からはっきりしていたことでした。

 当時、日米交渉の最大の焦点は、中国からの日本軍の撤退問題でした。アメリカは日本の駐兵を絶対認めないが、日本が絶対に譲れない問題だというのは、対米交渉の「最終」案なるものを決めた11月5日の御前会議で東条英機首相自身が、声を大にして強調したところでした。

 東条「惟(おも)うに撤兵は退却なり。百万の大兵を出し、十数万の戦死者遺家族、負傷者、四年間の忍苦、数百億の国幣(こくへい・資金)を費したり。この結果は、どうしてもこれを結実せざるべからず。もし日支条約(カイライ政権との「日華基本条約」)にある駐兵をやめれば、撤兵の翌日より事変前の支那(しな、中国)より悪くなる。満州・朝鮮・台湾の統治に及ぶに至るべし。駐兵により始めて日本の発展を期することを得るのである。これは米側としては望まざるところなり。しかして帝国の言うて居る駐兵には万々無理なる所なし」(『太平洋戦争への道・開戦外交史 資料編』朝日新聞社)。

 ここで東条が予想していた通りの態度を、アメリカ政府は、ハル・ノートで示したのです。

 それが分かっていたからこそ、軍部は、11月5日の御前会議の開戦決断後、ただちにその実行にとりかかり、ハル・ノートをアメリカが示した11月26日早朝には、日本の機動部隊は真珠湾攻撃をめざし南千島から出撃したのです。

 こうした、歴史の事実に多少ともまともに向き合おうとするものなら、日米交渉のこのなりゆきをもって、開戦の責任をアメリカになすりつけるような議論は、およそ口にできないはずです。(喜)

 〈参考〉『日本の戦争―領土拡張主義の歴史』(不破哲三著 新日本出版社)

〔2006・12・7(木)〕


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