1999年8月12日「しんぶん赤旗」
〈問い〉 三鷹事件、松川事件から五十年たつといいますが、これらはどういう事件だったのですか。
(秋田・一読者)
〈答え〉 両事件とも、一九四九年夏に国鉄を舞台に謀略的に起こされた列車事故です。事件当時は、アメリカ占領軍による「経済安定九原則」(ドッジ・ライン)を受け、国鉄の十万人をはじめ、官民あわせて百万人という大量の人員整理が出されており、労働組合は激しくこの首切りに反対していました。この年一月の総選挙では、日本共産党が三十五議席へと大躍進。アメリカの反共政策を背景にして、日本共産党などへの攻撃が強化され、三鷹事件がおきると直ちに時の吉田茂内閣は、事件は思想的背景をもつ犯罪だと反共デマの談話を発表しました。
三鷹事件に先立って同じ七月に、東京で国鉄の下山総裁が轢(れき)死体で発見された下山事件や、八月の松川事件でも反共宣伝がおこなわれ、首切り反対闘争は大きな打撃をうけました。
三鷹事件は七月十五日、中央線三鷹駅構内で無人電車が脱線、暴走して駅前の通行人ら六人が死亡した事件です。国鉄労組の日本共産党員ら十人が起訴されましたが、検察側が描いた構図は「空中楼閣」として裁判でしりぞけられ、竹内景助の単独犯行として最終的に死刑が確定しました。しかし、これにも疑問が多く、竹内は獄中で死去するまで、再審を請求していました。
八月十七日には、東北本線松川〜金谷川間で夜行列車が脱線転覆させられて、乗務員三人が死亡しました。これが松川事件です。松川事件では、国鉄と東芝の労組員二十人の犯行だとして、一、二審とも死刑をふくむ有罪判決がだされました。
これにたいする、被告や家族などの無実の訴えにたいし、作家の広津和郎らや仙台弁護士会の大多数など広範な人たちが支援にたちあがりました。全国的な「松川事件対策協議会」の活動は、大衆的裁判闘争といわれる新しい裁判支援運動の典型をつくりました。このなかで検察・警察による証拠隠しなども明るみに出て、最高裁は有罪判決を破棄して、高裁に差し戻し、最終的には一九六三年に全員無罪をかちとりました。
(村)〔1999・8・12(木)〕
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