2002年2月20日(水)「しんぶん赤旗」

 戦前の党員作家、小林多喜二はどんな人?


 〈問い〉 戦前の作家で日本共産党員だった小林多喜二はどんな人だったのですか。(群馬・一読者)

 〈答え〉 小林多喜二は一九〇三年十月、秋田県の農家に生まれました。〇七年、北海道の小樽でパン工場を営んでいた伯父のすすめで、一家は小樽へ移住。多喜二は小樽商業学校、小樽高等商業学校と進学しますが、在学中に文学への傾倒を強め、同人誌の編集や投稿などをしています。卒業した二四年に北海道拓殖銀行に勤めますが仕事のかたわら同人誌を編集発行し創作を続けました。

 当時、多喜二は、創作や生き方に矛盾を感じ、模索を続けていました。二六年、アンリ・バルビュスの反戦文学運動に深い関心を示したり、プロレタリア作家、葉山嘉樹の作品に接し、「作家の態度、意識」「表現様式」に新鮮な驚きを受けるなど、新しい方向を見出しました。このころから科学的社会主義の文献も学びはじめます。

 二七年は農民運動や労働運動が全国的に高揚し、北海道でも磯野小作争議や小樽港湾争議が起こりますが、多喜二はその支援活動にもかかわっています。

 二八年三月、特高警察の大弾圧で小樽でも多数が逮捕され、拷問・虐待をうけました。「一九二八年三月十五日」は綿密な調査をもとにこの事件の本質を描出したものです。雑誌は発売禁止になりますが、組織された配布網を通じて広範囲に読まれ大きな反響を呼びました。

 二九年には、北洋漁業での前近代的な奴隷労働の実態を「蟹工船」で描写。小作農民のたたかいを素材にした「不在地主」で、北海道拓殖銀行の収奪をあばいたことを直接の理由に、退職することになります。

 多喜二は三〇年に上京し、三一年十月、日本共産党に入党。非合法下の困難な活動の中、家族の生計も支えながら「党生活者」など創作も続けましたが、三三年二月二十日、特高警察に逮捕され、その日のうちに東京・築地署で虐殺されました。二十九歳でした。(

 〔2002・2・20(水)〕


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