1995年5月5日「しんぶん赤旗」
昨年十一月、愛知県西尾市の中学生大河内清輝君が、「いじめ」が原因でみずからの命を断つという痛ましい事件がおきました。ことしになっても子どもの自殺がつづいています。
日本共産党は、昨年暮れから「赤旗・いじめ一一〇番」を開設しましたが、そこには「いじめ」の深刻な実態や「いじめ」・体罰により登校拒否においこまれた例など、子ども・父母・教師から緊急で切実な訴えが多くよせられています。
いま、「いじめ」問題は、どの学校でもおこりうるきわめて広範囲な現象となっています。文部省は、一九八五年をピーク(約十五万五千件)に「いじめ」が年々減少傾向にあるとして、九三年度では二万一千五百八十九件と発表しました。しかし、この数字は、学校が認めたものの数だけであり、実態とあまりにもかけ離れていることは、文部省自身がおこなった「いじめ総点検」の結果、二カ月半で一万七千七百八十八件新たにわかったことでも明白です。高校生の二人に一人(五三%)がいじめられたことがあり、逆にいじめる立場も三人に一人が経験しているという調査もあります(リクルート社の「アンケート調査」、九五年三月九日付「日本経済新聞」)。
日本共産党は、愛知の事件があきらかになっていらい、人間を大事にする教育の欠如が「いじめ」問題の根本にあるという立場から、人間を大事にする教育を実現する方向にいまの学校教育を転換する必要があると主張してきました。
今回、「いじめ」問題克服のための緊急の提言を発表するものです。
いま「いじめ」は、からかいや「シカト」(集団による無視)、物かくし、侮辱的言葉などにとどまらず、殴るけるの暴行、多額の金品を脅しとるなどへと悪質化してきています。
弱い立場の一人の生徒を多数でいじめる、しかも長期にわたるため、いじめられる子が自殺においやられたり、神経症にさいなまれたり、登校拒否にいたるなど「いじめ」問題は深刻です。十数年たっても「恐怖がよみがえる」と体験者が語っているように、人格の形成にはかりしれない影響と苦しみをあたえているのです。
同時に、今日の「いじめ」の特徴は、いじめる子、いじめられる子、みている子、観客としてはやしたてる子がいて、それらの関係が何かがあればすぐに逆転するものとなっていることです。その意味で「いじめ」はなにか特別な子どもの問題ではなくなっているともいえます。
また、いじめられながらも、あるいは「いじめ」を知っていても、「チクッタ」(密告した)としてさらにいじめられたり、被害者にならないために、父母にだまっていたり、教師にも話そうとはしません。ここには、仲間関係を重視して子ども社会のことはおとな社会にゆだねないという子どもの心理や、教師などに訴えてもその対応に不安を感じるという不信もあるでしょう。こうしたことから、「いじめ」は陰湿化し、その実態がみえにくくなっています。
こうした「いじめ」のおこる背景には、子どもたちのどのような心理があるのでしょうか。
小学校低学年からのつめこみ教育で子どもたちはストレス、不安、抑圧感などを蓄積させていて、そのはけ口として攻撃的に弱い者への「いじめ」がおこなわれるということが指摘されています。学年がすすむにつれて、友人をもとめながら、友人関係が断ちきられ、孤独感におちいり、人間関係がみたされていません。
子どもをとりまく環境が急激に変化しています。子どもの世界から遊びがうばわれ、遊びのなかでおぼえる人間としての痛み、喜びを実感し成長することが少なくなっています。子どもの社会が仲間集団として機能していないため、多様な人間的葛藤(かっとう)が経験されていないこともあります。
さらに家庭では、親は長時間・過密労働で疲れ、子どもとかかわる時間が少なく、家族間の結びつきの希薄化もすすみ、それが子どもの成長にも影響をあたえています。地域社会での人間的結びつきも弱まりました。「子どもの自立」がこれまで以上に困難な状況にあるとみなければなりません。
また、人の弱点や障害をからかう番組や暴力を賛美するなど「いじめ」を「遊戯化」する風潮、テレクラなど性の商品化、子どもをとりまく退廃的文化の影響も深刻です。実際、テレビや雑誌などに影響された「いじめ」がおこっています。
「いじめ」の背景には、社会と政治のゆがみの問題もあることは、弱い者いじめ、多額の金銭がらみ、暴力行為という特徴に映しだされています。無差別殺人事件、金権腐敗の底知れないひろがり、公約違反など人間をふみにじる病理現象は深刻です。子どもだけが健全に成長、発達できるということはできません。
今日の「いじめ」問題には、こうしたさまざまな要因が複合的にからんでいます。「むかつく」「『イライラ』するからいじめた」「いじめて楽しかった」など、いじめる子は相手に痛みをあたえることを悪いと思わずに、生活のなかで蓄積された不満を発散させているといえます。
しかし、こうした要因のなかで子どもが多くの時間を過ごしている学校のなかでのストレス、抑圧感が増幅されている問題をなによりも考えてみる必要があるのではないでしょうか。
ほんらい、学校は、学ぶ喜びと友情をはぐくむなど子どもにとって楽しいところであり、人間的自立をたしかなものにする場であるはずです。そのために、学校は、社会の病理に抵抗して子どもをまもる防波堤でなければならないのです。ところが、その学校という空間で多くの子どもたちがストレス、抑圧感などを感じている、みんなと同じようにしないことが「いじめ」の口実になったり、個性のちがいを認めないことがその理由となるなど、今日の「いじめ」が学校の人間関係を基盤におこなわれているように、社会の病理にたいして防波堤となるべき学校が、それに拍車をかけている実態があるのです。しかも、学校こそ「いじめ」にたいする教育的指導の主体としての役割をはたさなければならないのに、「いじめがあるから何とかしてほしいといっても相手にしてくれない」「学校はいじめをなかなか認めてくれない」などという親の声がきかれるように、少なくない学校で「いじめ」にたいする対応のおくれが指摘されています。ここには、現在の教育政策のあり方が横たわっているのではないでしょうか。「いじめ」をおこす子どもの心理はさまざまな要因によって形成されますが現在の教育政策がそれを克服するのではなく、逆に助長するものとなっているなら、それは重大なことです。
日本共産党は、これまでも「いじめ」が学校のあり方や社会のゆがみと深くかかわっていることをあきらかにしつつ、その根本に差別・選別の教育と管理主義の強化という政府の教育政策があることを指摘してきました(一九八六年「『いじめ』根絶への提言」)。これほど大きな社会的現象となっている「いじめ」問題の責任を、個々の子どもや親や教師の問題に解消する安易な議論は、道理がないし、問題の核心を回避するものです。
いまこそ、この問題に抜本的にメスをいれなければなりません。
〈能力主義による競争〉
いま学校では、学習内容をこなすために小学校一年生の四月から勉強、宿題、テストの毎日です。テストや宿題に追われ、クラブ活動でしごかれたりで緊張感が限界にたっしている子どもは少なくありません。
八九年改定の現学習指導要領で、学習内容のつめこみがかつてなく強化されました。たとえば、小学校一年生から習う漢字の量がふやされ(五八年のときは四十六字、六八年改定で七十六字、八九年改定では八十字に)、掛け算の九九が三年生から二年生におろされ(実際の教科書には掛け算の概念が一年生から登場)、六年生で習っていたミリリットルが二年生におろされるなど、小学校低学年からつめこみと超スピードの授業がおしつけられています。
高校の序列化がすすんだため、幼児の段階から「大学」をめざす異常な受験戦争がくりひろげられていて、子どもたちの塾通いは日常化する一方です。
このように「できる子」「できない子」を差別・選別する諸制度を政府・文部省がつくりあげてきました。なぜなのでしょうか。「科学技術の進歩、産業構造の変化、情報化・国際化の進展に伴い新たな知識・技能の習得……などの学習需要が増大している」(文部省)から、高度な知識・技術を早くから身につけなければならない、そうしないと社会の発展についていけなくなるからだといいます。しかし、それは子どもの発達の論理と教育学など諸科学の成果に依拠しておこなわれなければなりませんが、実際は、こうした教育の条理を否定して、授業についてくる者を「良し」とし、他を切り捨てるという立場からおこなわれています。それは、「企業が求めているのは、画一化された労働力ではなく、多様な人材である」として、財界は、人間を「天才」「能才」「異才」「凡人」「非才」にわけて能力別の「棲(す)み分け」型の競争の導入を提唱してきたし(八五年三月、日本経済調査協議会「二一世紀にむけて教育を考える」)、財界の意向をうけた自民党も「競争原理は、人間の原理」などという「教育」論を主張してきたことからもあきらかです。
このため、学校では、子どもの評価が人間としてではなく偏差値や点数の優劣だけできめられ、最近では、「関心・意欲・態度」なども評価の対象にするなど、「新学力観」のもとで、子どもたちの人格の内面までたちいって点数化することになります。高校の受験では、内申書が高い比重をもつため、「本音をいわない子」「建前でとりつくろう子」など、子どもの心のゆがみをつくる大きな要因ともなっています。
「他人をけ落として一点でも多く取ること」に子どもたちはおいたてられ、その結果、自分自身の価値を見失い、社会に役だつ存在としての自信と展望をもてないでいるのではないでしょうか。
〈学校も“上意下達”の場に〉
この十年間、教師の多忙化もつよまり、多くの教師たちは、ものを考える時間がないほど忙しく、教師同士の会話すらなりたたない、子どもと話す時間がとれないという状況においこまれています。
文部省は、学校に、校長―教頭―教務主任―各種主任―教員という体制をつくりあげ、上意下達の「支配」で通達やマニュアルどおりの子どもへの指導という管理・統制が強化されるとともに多忙化もすすみました。この結果、ほんらい子どもの日々の生活や授業の問題が十分話し合われなければならない職員会議から子どもの問題が遠ざけられ、会議では“上からの伝達”が重視される状況がつくりだされています。そして、教員間の人間的関係もよわめられ、学校らしさがうばわれ、それが学校の「いじめ」にたいする対応の不十分さとなってあらわれています。教師がゆとりと創造性をもって子どもに接することができなくなっているのです。
そのうえ、子どもを管理の対象とする文部省の生徒指導の方針がまかりとおっています。たとえば、文部省が現在発行している『生徒指導の手引き』には、「生徒指導の原理」として「権力―支配―盲従の関係」をあげ、「強制的な力」で「指導される側が指導者に対して恐怖心を感じ、その恐怖心から免れるために服従する」「このような関係も効果的」であると書かれています。これは、子どもの教師にたいする「恐怖心」が教育上「効果的」だとするもので、これこそ教育の場にあってはならない非人間的指導方針といわざるをえません。
また、きびしい校則にみられるように子どもたちは、少なくない学校で自主性の発揮が抑圧されています。たとえば、「いじめ」で自殺者をだしたある中学校では、髪型だけでなく、「下着は華美でない白系統のものを着用する」などと下着の着用のことまでこと細かくきめた校則をおしつけていました。そして、校則違反という理由で、教師が子どもの髪の毛を切ったり、朝から子どもを「反省室」にとじこめ、授業にもださないなどという中学校もあります。多くの学校では、校則をまもらせるという理由で教師による体罰が公然とおこなわれたり、テストの点数が悪かったり宿題を忘れたりすると殴られる、クラブ活動中に活をいれるといっては殴るなどまったく理不尽な体罰がまかりとおっているのです。こうした一般社会では権利侵害として大きな問題になるようなことが、相手が子どもというだけでまかりとおっているのは重大です。
文部省の「いじめ」対策も、権力的おさえつけを主としたものでした。七〇年代後半から八〇年代にかけて「校内暴力」が全国にひろがったとき文部省は、校則をますますきびしくして「鎮静化」させてきました。その後、「校内暴力」にかわって「いじめ」が急増しましたが、ピークとなった八五年にも、もっぱら「いじめ」問題を学校・教師の責任としてみて、教師への管理をつよめました。しかし、その結果は「いじめ」を解決するどころか、陰湿化・潜在化させただけでした。
このように、学校を異常な競争と管理の場に変え、子ども同士がたがいに人間としてみる見方をゆがめ、屈辱感や無力感を蓄積させ、「いじめ」をひろげてきた原因の根本は、文部行政にあります。
ところが、文部省は、最近の報告書(「いじめ対策緊急会議最終報告」三月十三日)で、みずからの責任をたな上げにして「いじめ」問題の責任をまたもや教師、家庭のせいにして、異常な画一的なつめこみ教育の問題や、劣悪な教師の教育条件を不問にしています。これでは、「いじめ」問題の根本的解決はのぞめません。
日本共産党は、人間を大事にする立場から政党としてなによりも政府・文部省の教育政策をあらため、憲法・教育基本法を学校教育の中心にすえるべきだと主張してきました。
教育基本法は、めざすべき教育の理念・目的についてつぎのように明記しています。
「われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期する」(前文)
「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」(第一条「教育の目的」)
この教育基本法の教育理念にたてば、学校教育は、成長期にある子どもたちに、知識と体力、情操を、子どもの発達に即して身につけさせ、子どもたちがつぎの時代をみずからの力で創造できる人間として育っていくことを助けることに専念するものでなければなりません。これが、憲法や教育基本法のしめす人間を大事にする教育の中心点です。
この教育の中心点を歴代自民党政府がふみにじってきたところに、教育のゆがみの最大の原因があります。
日本共産党は、以上の見地にたって、異常な競争と管理の文部行政の転換のために奮闘するとともに、つぎのような「いじめ」克服のためのとりくみをよびかけるものです。
今日の「いじめ」は、特定の人間にたいする軽蔑(けいべつ)、侮蔑(ぶべつ)の体制であり、暴力によって服従を強いるものであり、長期にわたって相手の心身を徹底して痛めつけるなど「ふざけ」や「遊び」と決定的にちがっています。このような人間性の破壊は、人間を育てる教育の場に絶対あってはならないものです。
いまこそ、「いじめ」が、人間として許されないものであること、いかに人間はたがいに尊重されるべき大切な存在であるのかを学校教育のなかできちんと中心にすえることです。そして家庭、地域でも話し合い、教師、子ども、父母、地域全体の共通した認識にしていくことが急がれています。
それだけに、いじめる子の行為は許されるものでなく、教育的指導をつよめるのは当然です。「出席停止措置」(文部省「前掲報告書」)は、いじめられている子どもの学習権の保障という観点からの緊急避難的措置であって、いじめる子への懲罰主義の立場からそれを安易に使用することは「いじめ」にたいする教育的指導の放棄につながります。いまの「いじめ」は制裁や処罰による抑止だけではむずかしく、むしろいじめる子にたいする心理的ケアこそ必要とされています。度をこした「いじめ」問題には、学校、親、教育委員会、専門家が協力して、その子の状況や家庭の状況などを考慮にいれて、いじめる子の人間的成長を助ける「教育ケアセンター」(仮称)を設置するなど実情にあった対応の検討が大切です。
「いじめられる子にも問題がある」「いじめのなかで子は育つ」という観点は「いじめ」を正当化しかねない大きなまちがいです。それは、いじめる子にたいする教育を放棄し、かれらを暴力、たかり等を常習とするような非人間的な状況で放置することになるからです。
解決にあたっては、いじめられる子の人格・プライドを徹底して尊重する立場をつらぬく必要があります。
「いじめ」問題が発生すると「知らなかった」という学校・教師の態度は、もはや許されません。子どもたちの人権や命にかかわる問題がおきた場合は、いくら学校や教師が多忙であっても、その子どもたちの人権、生命をまもることがすべてに優先されなければなりません。
とくに、「いじめ」については、その対応を担任まかせにしないことです。「いじめ」をうけている子どもの苦悩や「訴え」をみのがさない敏感さとともに、初期の段階でのすばやい対応がもとめられています。初期の段階での対応いかんで、かなり解決が期待されます。そのためにも、教育行政は“いじめ総点検”“いじめ解決一〇のポイント”など「対策マニュアル」のおしつけでなく、職員会議で子どもの状態などが真正面から討議できるよう、さらに日常的にも教職員の機敏な連絡や情報交換などをとおして、教職員の創意をふくめた対応をすばやくはかるべきです。
また、「いじめられる」子どもは、いつでも安心して相談できるようにしてほしいという切実な願いをもっています。この子どもたちや父母などの訴えに、学校や地方の教育機関は、真剣にこたえる相談窓口などを開設すべきです。同時に、現在、多くの子どもたちにとって相談しやすい場所となっている保健室の拡充と養護教諭の複数配置などの増員を急ぐべきです。
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学校は、子どもの心にふれて人間形成をはかる場ですから、ほんらい、教師と子どものあいだに、人間同士の信頼関係がなければ教育はなりたちません。教育の場にふさわしい血のかよったあたたかさが必要です。教師の体罰が、授業中、クラブ活動を問わず、日常化していることは問題です。それは、体罰が、子どもたちに人間不信を植えつけ、子どもたちの人権感覚をゆがめ、「いじめ」を誘発する土壌となっているからです。体罰は、いかなる口実でおこなわれようとも肉体的苦痛や屈辱感で子どもを服従させ、統制するものであって人間の教育とはあいいれないものです。
ほんらいどの子どもも正義感や人への思いやりをもっているし、「いじめ」をなくしたいと思っています。子ども自身のとりくみをうながすことは、子ども同士で相互の信頼と連帯感が深まることになり、「いじめ」克服にとって大切なことです。あらゆる場で子どもの発言を保障し、クラスや児童・生徒会などで議論を深めていくことがとりわけ重要です。そのさい、論議を中途半端なものにせず、本音をだしきる討論によって、一人ひとりの良さや個性のちがいを尊重し、なによりも人間を大事にするということを深め、「いじめ」を許さない決意を全員のものにしきることです。このようなとりくみのなかで、子どもの自治の力や人権意識が育つでしょう。
「いじめ」を告発することは、勇気のいることです。「いじめ」にたちむかう力を発揮させるために、教師、父母、地域が子どもたちのとりくみをささえ、はげましていかなければなりません。
父母も子どもの問題でおおいに発言していきましょう。いじめられる子、いじめる子ともに、親が子どもの状況をしっかりとうけとめ、教師との率直な話し合いを重視し、父母がおおいに発言していくことが「いじめ」問題解決に不可欠です。学校も父母の意見を真剣にうけいれ、学校でのとりくみを父母に報告するようにすべきです。
PTAや各種の教育懇談会、父母の集まりのなかでも「いじめ」「体罰」問題を積極的にとりあげ、自主的活動を活発にしていくことも重要です。
「いじめる子」の背景に暴力団などが存在する場合、教師、父母、地域が力をあわせて社会的な問題にして暴力団とのつながりを断ちきり、学校に介入することをやめさせることです。
人間的発達を無視した画一的な学習指導要領の子どもへの強制をやめさせなければなりません。そして学習内容をおもいきって精選して、子どもの学習負担を軽減することです。それも暗記型の知識つめこみではなく、子どもたちが発達段階に応じて十分理解できるものにすることが重要です。
また、「関心・意欲・態度」など人格まで点数化する「新学力観」による非科学的な評価をやめさせ、子どもの成長・発達をうながす評価方法にあらためることも急がれます。一方的な過重なおしつけと鍛錬による教育でなく、子どもの自主性と子ども自身の成長を真に保障する子ども観にたって、週五日制にみあってほんとうにゆとりのある教育にすることがもとめられています。
すでに全国の二割近くの自治体で学習指導要領の見直しの意見書が採択されていますが、この世論をさらに大きくしましょう。
高校の受験体制の見直しが早急にもとめられています。内申書を選抜の手段(資料)としてではなく、高校入学後の教育の参考にするためのものにあらためさせる必要があります。競争をあおっている高校の学区制や専門科の多様化は再検討すべきです。中学校での早期選別につながる普通科高校への推薦はやめるべきです。
いま、生徒数が減り、進学希望者のほとんどを高校に入学させることは可能です。これを好機に、高校計画進学率を廃止し、学区を合理的に縮小するとともに、入学制度の改善、私学助成の増額などで、名実ともに高校の希望者全員入学を実現して過度の競争教育を緩和すべきです。
教職員がいくら多忙であっても「いじめ」解決への努力は、最優先されなければならないことは当然です。しかし、いまの教職員が忙しすぎてゆとりのないことが、「いじめ」問題への対応を困難にしているのも事実です。したがって、文部省は、「いじめられている子どもの立場に立った親身の指導をおこなうこと」を強調するなら、なによりも教職員を多忙化から解放しなければなりません。そのために、教職員をふやし、労働条件を改善することを急ぐべきです。アメリカの二十人学級を見学して「これではいじめはおきない」とかつての自民党政府の首相でさえいわざるをえませんでした。世界第二の経済力をもつわが国は、教育条件整備では後進国となっています。せめて、三十五人以下学級の早期実現を急ぐべきです。今年度政府予算で、各県に三名のカウンセラー配置などでお茶をにごし、その一方で教職員定員をさらに五千六百人も削減するのは許されません。
子どもを一人の人間として尊重し、権利行使の主体とみなす「子どもの権利条約」を学校、父母、地域に徹底することは、非人間的な「いじめ」をなくすうえで重要です。スウェーデンでは「だれも私をたたいたり、ばかにしたりすることはできない」「私には、よい暮らしをする権利がある」など年齢別にわけた「子どもの権利条約」の解説書がだされています。「子どもの権利条約」の普及・徹底につとめるべきです。また、生徒の参加のもとで各学校の非人間的校則の見直し・廃止などをすすめることです。そのためには管理主義教育の背景となっている文部省の「生徒指導方針」を撤回させましょう。
「いじめ」問題は、社会の病理の一つです。
「いじめ」問題の克服には、基本的には、社会と政治の病理現象をなおしていくことがもとめられているのです。そのために、父母、教師、地域の人びとがそれぞれの力を発揮するときであると考えます。人間として子どもが大切にされ、学校が学校らしい役割をはたせるよう父母、教師、地域の人びとが子どもとともに力をあわせることは、日本の民主主義の発展に大きな意義をもっています。
日本共産党は、人間の命、尊厳をうばうものには断固としてたたかってきた党として、戦後五十年のこのときに、新しい世直し運動として、住民本位の、人間尊重の立場から政治、社会の全般にわたる病理をただすために全力をあげるものです。ともに「いじめ」克服のとりくみに力をあわせようではありませんか。