日本共産党

「学問の府」にふさわしい大学改革か、
学術・教育を台なしにする小泉「改革」か

国民の立場で大学改革をすすめるための提案

2002年4月20日

日本共産党学術・文化委員会

同政策委員会


 わが国の大学は、いま重大な岐路に立たされています。小泉内閣が、「大学改革」として、国立大学を大幅に減らし、「将来は民営化も」(小泉首相)というような、むちゃくちゃな大学の削減・再編の計画を実行しようとしているからです。 

 小泉内閣の構想は、「競争的原理の導入や効率的運営」などとして、大学に企業経営の論理を導入し、大学をおよそ「学問の府」とは縁遠いものに変質させかねないものです。これが具体化されれば、ただでさえ劣悪なわが国の大学の研究・教育環境はいっそう後退し、大学の「生命」ともいうべき独立性・自主性が失われ、学生・教職員など多くの大学関係者に深刻な悪影響をもたらします。また、「特殊法人改革」の名で強行されようとしている日本育英会の廃止は、多くの若者から「進学の夢」を遠ざけてしまいます。

 大学は、わが国の「学術の中心」(学校教育法)であり、国民の大切な共通財産です。その改革は、「学問の府」にふさわしいやり方、国民の立場に立った視点ですすめなければなりません。日本共産党は、政府のそのときどきの意向で大学をつぶしたり、なんの合理的理由もしめさずに再編・統合しようという小泉内閣のやり方に反対し、真に国民の立場に立った大学改革をすすめることを提唱します。

大学の「リストラ」をすすめ、大学を国民から遠ざける小泉「改革」

 小泉内閣は、「構造改革」の一環として、昨年六月、「大学の構造改革の方針」(遠山プラン)をうちだしました。その内容は、(1)国立大学を再編・統合して大幅に削減する(2)国立大学の制度を解体し、民間経営の手法で運営する「国立大学法人」にする(3)競争原理を導入し、国公私立「トップ三〇」大学を重点育成する――というものです。さらに、文部科学省に置かれた国立大学に関する「調査検討会議」が今年三月に発表した「最終報告」は、約十二万人の全教職員を「非公務員」化することまでうちだしました。この方針は、国公私立にわたってわが国の大学に、歴史上かつてない重大な転機をもたらすものです。

(1)「経済再生に役立たず」と大学を切り捨てる

 小泉内閣は、「大学改革」の目的を「経済再生のため…世界で勝てる大学をつくる」ことだとしています。この目的のもと、大企業などによって短期間に実用化できる研究成果をうみだす大学を、重点的に育てようとしています。しかし、それでよいのでしょうか。

 大学が社会のなかで果たす大事な役割の一つは、「経済効率」「費用対効果」だけでは割り切れない多様な分野の研究に、じっくり腰をすえて取り組むことです。ところが政府は、この十数年来、大学関係予算の総額はすえおいたまま、一部の分野だけに予算を重点配分するやり方をとりつづけました。その結果、いま大学では、地道な基礎研究に従事する分野では水光熱費もままならないのに、政府がお金をつぎこんだ分野は「予算を使いきれない」など、研究分野間の驚くべき「格差」が生まれています。また、私立大学では、国庫助成が経常費の一割に落ち込み、受験者数の減少をうけて「定員割れ」など経営危機に陥っている大学もあります。

 小泉「大学改革」は、こうした事態を解決するどころか、経済的に「わりのあわない」大学をなくしてしまうというものです。こんなことをやれば、政府の判断で「重視すべきもの」とされた分野や、「競争」「効率」のものさしに合う研究だけがますます幅をきかす一方、地道でも創造的な研究や、大学がになっている広い学問分野の教育は成り立たなくなります。地域に結びついた大学の付属病院や付属学校でも「効率」を優先すれば、その地域の医療や教育そのものが成り立たなくなってしまいます。それだけではありません。このような目先の「世界で勝てる大学づくり」とか「効率」だけで、幅広い分野の基礎研究を衰えさせてしまえば、結局は将来の生産技術の革新などにも悪影響がおよびます。

(2)世界に例のない「大学の自治」じゅうりん

 大学の自主的運営など「大学の自治」こそ、大学を生き生きとした「学問の府」とし、優れた研究成果や人材をうみだす制度的な保障です。ところが小泉「大学改革」は、大学を政府の意にそわせるために、「大学の自治」を根こそぎ奪おうとしています。 政府の国立大学「法人」化計画はそのかなめです。

 いまの国立大学制度のもとでは、大学の「目標」はそれぞれの大学の自主的責任で決められますが、「国立大学法人」制度になれば、それを決めるのは文部科学大臣です。文科大臣の決める「中期目標」には、六年間の教育研究や経営などに関する「目標」がもりこまれ、大学はその効率的な達成が要求され、達成できなければ予算が削られるなどの措置がとられます。このような、大臣=行政当局が各大学の「目標」を決めるという制度は、世界に例のないものです。

 そのうえ、「法人」の運営は「トップダウン」でおこなわれます。大学の執行部に企業などからの学外者が参加し、その執行部が大学の意思決定権をにぎり、「競争原理」や「効率的運営」など、教育・研究にはなじまない企業経営の論理で大学を運営するようになります。さらに、教職員の「非公務員」化は、教職員の身分を不安定にし、教授会が教員人事を決めるなど「大学の自治」を保障する重要な法制度をなくしてしまうものです。学長選挙制度の廃止もねらわれています。このように国立大学の「法人」化は、「大学の自治」を大もとからゆるがすものです。

 政府は、国立大学の「法人」化で「大学の自律性が拡大する」かのようにいいますが、その「自律性」なるものは、大学が政府のいうことに従う範囲でのことにすぎません。むしろ、この構想は、大学の外部からあれこれ指図・命令することで大学の独立性・自主性を根本から失わせ、ひいては、憲法が定める「学問の自由」を“絵に描いた餅”にしてしまうものです。

(3)地方の国立大学をなくしてしまう

 日本のどこに住んでいても、等しく高等教育が受けられる――戦後、「一県に一国立大学」の原則を採用した結果、いま、どの都道府県にも複数の学部をもつ国立大学があります。ところが文科省は、この原則を投げ捨てて、地方の国立大学を再編・統合しようとしています。

 多くの県では、進学する高校生の四〜五割がその県内の大学に入学しています。国立大学がなくなれば、他県の国立大学に進学するか、学費の高い私立大学に通うか、あるいは大学進学そのものを断念させられるか、いずれにしても「高等教育の機会均等」が、ますます遠のく結果になってしまいます。しかも、地域に根ざした研究や地場産業の育成など、国立大学が寄与している地方の文化や経済に深刻な打撃をあたえることも目にみえています。

 とりわけ問題なのは、文科省が、教員養成の大学・学部を半分以上の県からなくす方針を明らかにしていることです。そうなれば、「その県の子どもたちをその県の出身者が教え、育てる」というシステムが働かなくなり、地方に密着した教育問題を研究する場が消えてしまいます。また、ゆきとどいた教育をすすめるために「三十人学級」を導入する県や市町村が増えているいま、その努力・対応に決定的な悪影響をおよぼすことにもなります。

(4)多くの大学が弱体化し、学費は高騰する

 国立大学の「法人」化計画や「トップ三〇」大学の育成方針は、政府が「世界最高水準」とみなす大学・学部だけを予算の重点的配分などで優遇する一方、それ以外の大学・学部を乱暴に切り捨てていくものにほかなりません。この方針にそって、私学助成についても、政府が特定の大学に直接配分する「特別助成」を増やし、広く配分される「一般助成」は削減しようとしています。

 いまでも予算の少ない地方の国・公立大学、受験者の減少で経営そのものが危機にさらされている多くの私立大学は、これによってますます予算を削られ、「世界最高水準の大学」になる可能性どころか、大学としての存立条件そのものが奪われかねません。そうなれば、国公私立にわたって、大学間の「格差」拡大と序列化もいっそうすすみます。また、政府が手厚く育成する一部の大学に受験者が集中し、受験競争も激化するでしょう。子どもと教育をめぐる深刻な問題の解決に新たな障害となることは明らかです。

 いま、不況・リストラのなかで親からの仕送りやアルバイト先が減り、奨学金を申請する学生が急増しています。大学をやめるところまで追い込まれる学生も増えています。ところが、「国立大学法人」になれば、国立大学の学費は国会の審議ぬきで「法人」が独自に決められるようになります。「法人」には、「自己収入の拡大」などの「経営努力」がもとめられるため、学費の「学部間格差」の導入や大幅値上げがすすめられることは明らかです。そのうえ、公立・私立の値上げを誘発し、連鎖的な学費値上げに拍車がかかるでしょう。国民の教育費負担はいっそう重くなり、多くの高校生が大学にすすむこと自体をあきらめなければならなくなります。

 結局のところ、小泉内閣の「大学改革」とはなんでしょうか。研究・教育に果たす国の責任を最大限減らす、研究・教育を“利潤第一主義”に奉仕させる――これが、本質ではないでしょうか。

 世界では、「国が大学の教育研究条件を手厚く保護する」のが常識です。ヨーロッパでは、大学は基本的に国(公)立です。小泉「大学改革」は、この「世界の常識」に真っ向から反して、「あとは野となれ山となれ」でわが国の学術・教育を台なしにするものです。

小泉「改革」から大学をまもるための共同のたたかいを

 このような小泉「大学改革」に、「これでは、大学全体が金もうけの手段になってしまう」(鹿児島大学長)と、全国の大学からきびしい批判と反対の声が上がっています。

 ところが文科省は、この声に耳を傾けるどころか、有無をいわさず大学に押しつけようとしています。たとえば、国立大学の再編・統合問題について、昨年六月に開いた国立大学長会議で、「(実現にむけた)努力がないなら、見捨てざるをえない」などと脅したうえ、「最終的には当省の責任で具体的計画を策定する」と開き直っています。

 文科省は、こういう「問答無用」の強権的なやり方で、国立大学の「法人」化と再編・統合の具体的計画を今年中に決め、来年の通常国会で法制化しようとしています。公立大学についても、国立大学にならって「法人」化するとしています。「トップ三〇」入りをめざす私立大学のリストラをあおりたてています。

 事態はまさに緊迫しています。わが国の学術・教育を台なしにする小泉「大学改革」をきっぱりとやめさせ、国民の立場に立った大学改革をすすめるために、大学関係者をはじめ、国民のみなさんがそれぞれの立場で力をあわせようではありませんか。

国民の立場に立った大学改革を――日本共産党の提案

 日本の大学には解決すべき問題が少なくありません。日本共産党は、わが国の大学を国民の立場で改革する基本的な方向を、以下のとおり提案するものです。

(1)国立大学「法人」化・教職員の「非公務員」化、強権的な「再編・統合」を撤回させ、国民参加で国立大学改革を検討する

 なによりもまず、国立大学の「法人」化と教職員の「非公務員」化、強権的な「再編・統合」など、国立大学の「リストラ計画」を撤回すべきです。

 国民の立場からの国立大学改革をすすめるには、大学を「学問の府」として充実させるために研究・教育条件の向上をはかること、大学の「生命」というべき独立性・自主性を保障することを土台にすえなければなりません。そのうえで、国立大学の現状と問題点を分析し、その改革策を検討すべきです。そのさい、国立大学関係者の意見を尊重するとともに、ひろく国民各層の意見を反映させることは当然です。

 日本共産党は、国立大学の再編・統合に一律に反対するものではありません。教育・研究を充実させる見地に立って、再編・統合に合理的理由がある場合でも、学内合意を基礎にした大学間の自主的な話し合いと、地域の意見を尊重することを前提にし、「一県一国立大学」の原則は守ってすすめるべきです。

(2)「大学の自治」を尊重した財政支援のルールを確立する

 世界で形成されてきた「大学改革の原則」は、「支援すれども統制せず(サポート・バット・ノットコントロール)」であり、「大学の自治」を尊重して大学への財政支援を行うことです。わが国でも、国公私立の違いにかかわらず、大学に資金を提供するものと、教育研究をになう大学との関係を律する基本的なルールとして、この原則を確立すべきです。

 国による財政負担の責任をはたさせる……わが国の大学がかかえる最大の問題は、大学関係予算がGDP(国内総生産)比で欧米諸国の半分の水準にすぎないことが主な原因となって、教育研究条件が劣悪で、学生の負担が世界に例をみないほど重いことです。すべての人々に高等教育をうける権利を保障するため、条件整備をはかることは国の責任であり、大学関係予算を大幅に引き上げるべきです。国立大学の狭くて老朽化した施設を改善することなどは、当然のことです。

 学生総数の八割を擁し、高等教育の大半をになっている私立大学への国の負担責任を明確にし、一九七五年に国会が決議しながら、いまだに実行されていない「経常費の二分の一補助」を早急に達成すべきです。

 文科省による官僚的な統制の仕組みをなくす……大学がすべての人に開かれ、社会的責務にふさわしく発展するには、文科省による、「予算配分権」を利用した財政的誘導や、各国立大学の事務局長などに派遣した官僚を通じた干渉など、大学の自主的改革を妨げている統制の仕組みを廃止すべきです。

 そのために、政府の裁量で大学に資金を交付する現在の仕組みを、大学・学術団体の代表や有識者で構成する独立した配分機関を確立し、公正に資金配分を決める仕組みに改革すべきです。国立大学の事務局長を大学自身が選考するようにあらためることも必要です。

(3)「国民の共通財産」にふさわしい大学改革を

 教育を重視し学びがいのある大学にする……大学は、「学術の中心」であるとともに、教育基本法にもとづく公的な教育機関でもあります。大学進学率が五〇%となった今日、その社会的役割はいよいよ重くなっています。とくに、競争教育のもとで世界一「勉強嫌い」にさせられている青年を受け入れる最高段階の教育機関として、真剣に学生教育にあたるべきです。

 学生は、「授業がわからない、つまらない」「授業の方法やカリキュラムを改善してほしい」などの強い不満・要求をもっています。大学が、学生の実態にかみあった教育内容や方法に改革することが期待されます。

 九〇年代の文科省による「教養部解体」など教養教育軽視をあらため、学生の人間形成や学問の基礎をつちかう教養教育を重視する必要があります。少人数教育の本格的な導入や勉学条件の充実などのために、教職員の増員をはかり、非常勤講師の劣悪な待遇を改善すべきです。

 財界の側が一方的に就職協定を破棄したために、四年生は“企業回り”で授業に出席できないなどの問題も解決する必要があります。

 大学院は、院生の急増により、「院生の机もない」など教育条件の悪化が深刻です。高度な専門教育にふさわしく、教員配置や施設の改善などを急ぎます。

 大学入試は、高校以下の教育をゆがめないように、高校での基本的な学習の到達度をはかる資格試験的なものへ改革することを提案します。

 欧米から立ち遅れている社会人教育の拡充や学費援助、留学生の教育・生活両面での援助を強化するなど、大学をもっと多くの人が利用できるように充実させることが必要です。

 自由で創造的な研究を振興する……ノーベル賞を受賞した白川英樹氏や野依良治氏の研究のように、自由な発想から生まれる創造的研究や、人文・社会科学をはじめ、産業技術に直結しなくとも学問的意義のある研究を、積極的に振興すべきです。

 そのためには、国立大学の「校費」のような「自由に使える教育研究費」を充実させることが不可欠です。大学院生やポストドクター(博士号取得者)に若手研究者としての地位を認め、劣悪な研究条件を改善することも必要です。

 大学と企業との共同では、研究における大学の自主性、対等で民主的な関係、研究成果の公開などのルールを確立すべきです。

 民主的で実行力ある大学運営制度をつくる……大学の目標や計画を決めるのは大学自身です。その意思決定は、教員の属する基礎組織から民主的に選ばれた評議会などでおこなうべきです。そうした全学的な意思決定にもとづいて、全学投票などで選ばれた学長などの執行部がリーダーシップを発揮して執行にあたることが重要です。また職員・学生・院生に、大学におけるそれぞれの立場からの権利を認め、大学運営への参加の制度をつくるべきです。

 大学が国民の意見をうけとめる制度を確立する……大学自らが、国民のなかの多様な意見をうけとめ、大学運営や教育研究に主体的に生かすための制度を確立することが必要です。大学財政や教育研究成果の公開をすすめるとともに、学生の父母や地域社会の代表、教育関係者などが参加し、大学への意見・要望を自由にのべる場を多様な形態でつくることです。

(4)国民の学費負担を減らす方向に踏みだす

 欧米諸国では、学費は無償か安価で、奨学金も返還義務のない「給費制」が主流です。世界の流れは「高等教育の漸進的な無償化」(国際人権A規約第一三条C項)です。ところが日本は、私立大学で平均百二十八万円(初年度納入金)に達し、国立大学でも来年度から八十万円をこえ、国民が負担する学費の水準は文字どおり「世界一」です。奨学金制度も貧弱で、利子付き奨学金が中心です。

 日本は、「無償化」の国連規約の批准を拒否している数少ない国のひとつです。「無償化」の国連規約を批准して、国民の学費負担を減らす方向を明確にします。当面、育英会の廃止をやめさせ、奨学金制度の抜本的拡充をめざします。

 国民の暮らしと教育を受ける権利をまもる緊急対策として、国立大学費値上げの中止と免除枠の拡大、公・私立大学の学費免除への国の補てん、無利子奨学金の拡充を実施します。



もどる

機能しない場合は、ブラウザの「戻る」ボタンを利用してください。


著作権 : 日本共産党中央委員会
151-8586 東京都渋谷区千駄ヶ谷4-26-7 Mail:info@jcp.or.jp