1999年12月19日「しんぶん赤旗」に転載

子どもと教育をめぐる社会的な危機を打開するために

日本共産党委員長 不破 哲三

『教育評論』2000年1月号


 日本共産党の不破哲三委員長が執筆した論文「子どもと教育をめぐる社会的な危機を打開するために」が、日教組の月刊機関誌『教育評論』二〇〇〇年一月号(十二月十日発売)に掲載されました。同誌編集部が、世界の教育改革の潮流に注目しながら、教育改革に「多くの人たちの叡智を集める必要がある」として、特集「21世紀にむけた我が党の教育政策」の原稿執筆を各政党の党首に依頼し、不破委員長がそれにこたえ寄稿したものです。『教育評論』誌の了解をえてその論文の全文を転載します。文中の中見出しは、転載にあたって赤旗編集局がつけました。


(一)危機の打開のための三つの提案

 いま、子どもたちをめぐる日本の状況は、たいへん危機的な様相を深めています。日本の社会の立て直しのためには、教育の抜本的な改革をふくめ、子どもたちの問題への社会の全力をあげての取り組みを避けるわけにはゆきません。

 私たちは、その立場から、一九九八年四月、党の中央委員会として、子どもと教育をめぐる社会的な危機を打開するための三つの問題を提起し、国民的な討論をよびかけました。

学校教育の抜本的な改革――子どもの成長と発達に中心をおく

 その第一は、学校教育を、子どもの成長と発達に中心をおいて、抜本的に改革する問題です。

 現在の学校教育は、受験中心の詰めこみ教育、競争教育が基本になっていて、それが、高校、中学から小学校にいたるまで、支配的な流れになっています。そして、この受験中心の教育が、学校を荒廃させ、子どもの世界を荒廃させ、さらにはそのなかで形成される社会人をもゆがめる深刻な要因となっています。

 受験のための詰めこみ教育の重荷から、子どもたちを解放し、

 自然と社会のしくみを考えさせるほんとうの意味での知育、

 社会を構成する人間にふさわしい市民道徳を身につける徳育、

 人間が生み出してきた文化・芸術に親しみ、その感受性をやしなう情操教育、

 基礎的な体力の増強とスポーツ精神を体得させる体育、

 これらを学校教育の中心にすえ、それをすべての子どもたちのものにすることに真剣に取り組む、こういう立場で、教育の全体的な立て直しをはかる、というのが、学校教育の改革についての、私たちの提案です。

 学校行政の面でも、子どもの自主性をおさえこむ統制と押しつけ一本やりの学校運営や、学校の施設の荒廃を放置している教育予算の不当な切り詰めをあらため、三〇人学級の実現をめざすなどの抜本的な改革が、子どもの教育と成長の環境をととのえるうえで重要なことは、いうまでもありません。児童・生徒数が減少傾向に向かいはじめたいま、それを教育予算を切り下げる口実にするなどの邪道に立つことはやめ、この新しい条件も活用して三〇人学級に接近しそれを実現する努力を、本格的におこなうべきです。

社会の各分野で道義ある社会をめざす取り組み

 第二に子どもの世界の健全な発展をはかるうえからも、社会の各分野で、道義ある社会をめざす取り組みが、重要です。

 子どもの世界というものは、社会から切り離されて温室的な形で存在しているわけではありません。学校で、子どもたちに市民道徳をきちんと身につけてもらう教育は重要ですが、子どもの世界だけに市民道徳の徹底を求めても、社会の全体が、道義的に荒廃していたのでは、これは空文句になります。社会のどの分野でも、健全な市民道徳が確立している状態をめざし、市民道徳にかなった道義性をどの分野でもそれなりに確立してゆく努力が目に見える形でおこなわれてこそ、子どもたちの世界でも、健全な発展がほんとうの意味で可能になります。

 なかでも、この面で大きな社会的責任をになっているのは、政治の世界と経済の世界です。ところが、この二つの世界は、いま日本の道義的腐敗のいわば震源地ともいわれる状態にあります。新聞を読んでも、テレビを見ても、政治・経済の世界での腐敗事件の報道がない日はありません。また、直接の刑事犯罪は構成しないまでも、公約をふみにじるとか、いったん決まった法律でも、自分たちに都合が悪いとなると、数を頼みに勝手に変更をはかるとか(政治献金問題など)、誤った政策で重大な失態をさらけ出しても、その責任をとらない(最近の東海村・核燃料工場の事故など)とか、社会的、政治的な道義に反する事件は、連日、さらに無数に起きています。こういう不道義が野放しにされている社会で、子どもの世界だけに、健全な発展を期待するわけにゆかないことは、自明のことではないでしょうか。

 こういう点で、政治腐敗、経済腐敗などの一掃をはじめ、各分野の社会的道義の確立をめざす大きな運動が、いま特別に重要な意義をもっていると思います。

 さらに、政治の側から、子どもの世界に破壊的な影響をあたえる行動をとることが、論外のものであることはいうまでもありません。国会で多数で強行されたサッカーくじ法などは、その最たるもの、まさに、政治の介入で子どもの生活環境を無神経に汚染する暴挙でした。私たちは、その廃止を主張していますが、子どもの生活環境にかかわる問題については、政治の側が自らもっともきびしく律するべきであることを、あらためて強調するものです。

テレビ、雑誌など文化面で、社会の自己規律を確立する努力

 第三は、子どもたちを社会的な頽廃からまもるために、とくにテレビや雑誌などの文化面で、社会の自己規律を確立する努力です。

 この分野では、日本の国際的なたちおくれは、たいへんいちじるしいものがあります。

 私自身、各国の状況をかなり調べてみましたが、この問題への取り組みは、世界各国で大きくすすんでいることをあらためて知りました。とくにすすんだ国では、暴力や性などを野放しにした映像が、成長期の子どもにどのような影響をあたえるかなどの調査も、公的な形できちんとおこなわれています。そして、その調査結果もふまえて、政府や業界の規制だけでなく、親や教育関係者をふくむ社会全体の取り組みが、制度としても確立しつつあります。そういう国では、日本から輸出された子ども向けのテレビ番組―もちろん、日本ではなんの制約もなしに放映されているものです―が、そういう社会的な規制のなかで、放映をさしとめられるといった事例も、出ています。

 こういう状況にてらしてみると、日本は、暴力と性をむき出しにした映像や雑誌などにたいして、子どもたちがもっとも無防備でさらされている国だといっても、けっしていいすぎではないでしょう。

 私たちは、この面でも、異常というべき日本のたちおくれを早急に克服し、子どもの健全な成長をきっちりと主題にすえた、社会の自己規律を確立するために、努力をつくさなければならない、と思います。

(二)提案は、その内容の合理性と緊急性が実証されてきた

 以上が、一九九八年四月、私たちが、国民的な討論をよびかけた三つの提案です。

 そこで提起した内容が、日本の危機的な現状を打開するうえで、合理性と緊急の必要性をもったものであることは、その後、いろいろな側面から実証されてきました。

 ここでは、二つの問題を紹介しておきたいと思います。

国連の「児童の権利に関する委員会」の日本政府への勧告(一九九八年五月)

 その第一は、一九九八年六月、国連の「児童の権利に関する委員会」が、日本政府から提出された報告を審査したうえで採択し、日本政府に送ってきた「最終見解」です。

 「最終見解」は、冒頭に「委員会は、日本の第一回報告を一九九八年五月二七日および二八日に開催された第四六五回〜第四六七回会合において審査し、以下の最終見解を採択した」と書いたうえで、一連の重要な勧告をおこなっています。その内容は、全体として、たいへんきびしいものです。この委員会がこのようなきびしい内容の勧告を採択したというのは、他国の場合には例のない、きわめて異例のことだと聞きますから、そのこと自体、日本の子どもたちのおかれた状況が、世界的にも異例なことの実証にほかなりません。

 その勧告のなかで、とくに私が注目したのは、次の二つの項目です。

 一つは、学校教育の改革を勧告した第四三項です。

 「四三。締約国〔日本―不破〕に存在する高度に競争的な教育制度並びにそれが結果的に児童の身体的及び精神的健康に与える否定的な影響に鑑み、委員会は、締約国に対し、条約第3条、第6条、第12条、第29条及び第31条に照らし、過度なストレス及び登校拒否を予防し、これと闘うために適切な措置をとるよう勧告する」。

 受験中心の詰めこみ教育の害悪は、国連のこの委員会でも、これだけの重大性をもって認識され、日本政府にたいして、学校教育の改革についての勧告まで出されるにいたったのです。

 もう一つは、暴力とポルノなどの頽廃文化から子どもたちをまもる問題をとりあげた第三七項です。

 「三七。委員会は、締約国に対し、印刷・電子・視聴覚メディアの有害な影響、特に暴力及びポルノグラフィーから児童を保護するため、法的なものを含め全ての必要な措置をとるよう勧告する」。

 これも、日本のたちおくれを、端的に指摘した勧告です。

 これらの勧告にたいして、日本政府がなんらかの具体的措置をとって対応したという話は、私たちはまったく聞いていません。しかし、政府が黙殺の態度で逃げたとしても、国連の「児童の権利に関する委員会」の「最終見解」が、国際的な基準にてらして、子どもたちをめぐる日本の危機的な現状とその原因をあらためて浮き彫りにしたものであることは、誰も否定できないことです。

子どもの現状についての文部省発表の調査(一九九八年九月)

 その第二は、一九九八年九月に発表された「国民の健康・スポーツに関する調査」(文部省委託調査)です。そのなかに、「自分が不安に感じる原因」について、小・中・高校ごとに調査した数字が出ていますが、「授業がわからないこと」を不安の原因にあげている者は、小学六年生で四七・七%、中学三年生で六二・五%、高校三年生で五二・一%、どの層でも半数前後に達しています。また「進路・進学の不安」は中学・高校ではそれ以上に多く、中学三年生では六八%、高校三年生では七七・一%となっています。この二つは、子どもたちの不安の原因のなかでずばぬけて大きい比重をしめており、受験中心の教育体制が子どもたちの気持ちをいかに暗く荒れたものにしているかを、物語っています。非行や少年犯罪がひろがる根には、大多数の子どもたちのこうした状況があるのです。

 また、これは少し以前の調査ですが、国立教育研究所で、中学校の数学・理科教育についての国際比較をおこなったことがありました(調査年一九九四〜九五年)。理科が好きな生徒の割合は、日本は五六%で、調査した二一カ国のなかで最下位(国際平均は七三%)、数学の好きな生徒の割合は、日本は五三%で、調査した四〇カ国のなかで三八位でした(国際平均は六八%)。自分たちとしては、高度な理科・数学教育を子どもたちの頭に詰めこんでいるつもりでも、それが世界でトップ・クラスの理科・数学嫌いを生み出している皮肉な現実を、文部当局は直視する必要があります。

(三)「日の丸・君が代」の押しつけは学校教育の荒廃を加速する

 教育に破壊的な影響を及ぼしている問題に、「日の丸・君が代」の押しつけの問題があります。

 日本共産党は、今年の通常国会に最終盤になってあわただしくもち出された、政府の「日の丸・君が代」の法制化の提案に反対し、次の二点を主張しました。

  1. 「日の丸・君が代」は、主権在民の原則に反し、侵略戦争の歴史に重なるという重大な問題点をかかえており、これを国旗・国歌とすることには反対であること。
     国旗・国歌は、いまの日本にふさわしい国旗・国歌は何かについて、十分な国民的討論をおこない、国民の合意をえて制定すべきものであること。

  2. 国旗・国歌が公式に決まった場合でも、それは、国として公的な行事に使うことが認められるということであって、国民にも教育の現場にも強制されるべきでないこと。

  政府は、例の「社会的定着」論をふりまわして、国民的な討論を最後まで回避し、国会での数の暴力で「日の丸・君が代」の法制化を強行したことは、ご承知の通りです。しかも、学校現場への「日の丸・君が代」の押しつけを、いっそう居丈高な態度で強行しようとしています。

 その国の”国旗・国歌”がもつ歴史は国によってさまざまですが、歴史がどうあろうと、生徒・児童の内心の自由を尊重し、学校教育でこの種の押しつけをしないということは、近代国家の共通の原則となっています。いま政府が強行している押しつけは、この原則に背を向けた、文字通り戦争と軍国主義の時代の遺物であり、学校教育の荒廃した現状を、上からの統制のもちこみでいっそう危険な状態にみちびくものです。

 私たちは、教職員のみなさんやご家族や地域のみなさんと力をあわせて、学校教育をゆがめ、破壊する「日の丸・君が代」の押しつけをやめさせ、生徒・児童の内心の自由の保障された明るい学校生活の確立のために、ひきつづき努力してゆくつもりです。


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