2002年9月18日(水)「しんぶん赤旗」
八月二十六日午前十一時、成田空港を出発、北京時間午後一時十五分、北京空港に到着した。空港では、中連部から張志軍副部長、李軍第二局長代理、趙世通日本処副処長らが迎えてくれた。張志軍さんは、中連部の四人の副部長の一人、初対面である。李軍さんは、前に東京の大使館で顔なじみ、第二局とは、日本をふくむアジア八カ国が担当で、現在局長は空席だから、みなさんが「局長、局長」と呼んでいる。趙世通さんの日本処とは、そのもとでの日本担当の部門だが、ここも処長が空席で、事実上の処長。日本語は流暢(りゅうちょう)で、その後、首脳会談をはじめ、大事な会談の通訳をつとめてくれた。
空港の出口へと案内されながらの問答。張志軍さん「前回の訪問から四年目ですね」、不破「それでも第一回目と第二回目のあいだは三十二年、第二回目と第三回目のあいだが四年ですから、八倍のスピードアップですよ」。同じ問答は、滞在中、ほとんど会う人ごとに繰り返された。“一衣帯水”の隣国だけに、四年ぶりの訪中というのは、中国の人たちには、そんなふうに映るらしい。
空港から宿舎の車のなかでは、早速“理論談議”となった。「不破さんは、いま何を研究しているのですか」というので、「マルクスが、資本主義批判で『資本論』に何を書き残していたかを主題に、雑誌『経済』に連載の最後の原稿(十回目)を渡してきたところ」と答える。
「その次は何をやるつもりですか」、「これがマルクスの社会主義論だと言われているもので、実際には、あとからつけくわえられた話もずいぶんあるから、マルクスが社会主義論、共産主義論について、どこまで書いているかを、まとめてみたい。マルクスは、社会主義の青写真をかくことはしないで、それは実際にその仕事に当たるのちの世代にまかせていた。だから、中国でどんな社会主義をつくるかは、あなたがたはそれをマルクスから任せられているんですよ」、こんな話をしているうちに、車は早くも宿舎・北京飯店の前に到着した。
これまでの二回の北京訪問(一九六六年、九八年)は、いつも宿舎は釣魚台にある国賓館だった。ここは、たいへん風情のいいところだが、北京の中心部からは少し離れたところにあり、あちこちへの出入りや交通には、今回の北京飯店の方が、だいぶ便利なようだ。警備の厳重な国賓館と違って、街へ出るのが自在なのもいい。
案内された私たちの部屋は十二階、私と林さんは東長安街に面した南面の部屋に、庄子さんはその筋向かい、筆坂さんと緒方さんは王府井(ワンフーチン)大街に面した東面の部屋に、それぞれ陣取った。空港からとどいたトランクをあけ、衣類や資料などを整理しながら、作家の水上勉さんが一九八九年六月、天安門事件を体験したのは、たしかこの北京飯店でだったことを、思い出した。私の部屋からベランダに出ると、天安門広場は右手の間近に見えるが、水上さんの体験記(「しののめの空明かり」『心筋梗塞の前後』文芸春秋社所収)では、王府井の方面しか見えなかったように書かれていたから、おそらく東面の部屋だったのだろう。
四年前の訪中のとき、この事件について、胡錦涛政治局常務委員(国家副主席)に、日本共産党の見解を率直に話したこと、また、中連部の人たちと話し合うと、それぞれが、紋切り型の公式見解ではなく、自分の意見を思い思いにいうので、事件から九年をへて「開けた」空気をそのあたりにも感じたことなどを思い起こしながら、身支度を急ぐ。午後四時半からは、早速、中連部の戴秉国(たいへいこく)部長との最初の会談である。(つづく)