2002年9月22日(日)「しんぶん赤旗」
二日目の日程は、社会科学院での学術講演から始まった。ここは、社会科学の各分野にわたる中国の研究者たちが集まっていて、現在、院長の任にあたっているのは、明日夜、会談を予定している政治局委員の李鉄映(りてつえい)さん、構成のリストには、哲学研究所、マルクス・レーニン主義・毛沢東思想研究所、日本研究所など、三十一にものぼる研究所の名前がならび、総計約三千人の研究者がここで活動しているという。
私の演題は「レーニンと市場経済」である。この問題は、実は、一九九八年に雑誌『経済』に連載を開始した「レーニンと『資本論』」の研究のなかで、深い興味をもって追跡した問題の一つだった。レーニンが、その活動の最後の時期に、「新経済政策(ネップ)」を展開するなかで市場経済と社会主義の問題に正面から取り組んだことは、以前からよく知っていたが、その理論と実践の足跡をあらためて追ってみると、ことの経過は、そんなに単純なものではないことが分かった。
明らかになったのは、次のような点だった。
――十月革命後の早い時期から、レーニンが、市場経済を否定する立場で、社会主義建設を構想し、「戦時共産主義」の時期にそれを極端なところにまで発展させたこと。
――干渉と反革命との戦争に勝利したあとも、この構想を捨てなかったが、農民との矛盾が激化し、一九二一年三月、いわゆる「新経済政策」への転換を余儀なくされたこと。
――それでも、レーニンは、市場経済を認めることだけは、なんとかして避けようとし、市場経済抜きで農民との矛盾を解決すべく懸命の模索を試みたこと。
――痛苦に満ちた模索の結論として、レーニンが市場経済の容認に踏み切ったのは、一九二一年十月だったこと。
――踏み切って以後は、レーニンは、この問題の本格的な研究に取り組み、農民との関係の改善という部分的な視野にとどまらず、その政策を「市場経済を通じて社会主義へ」という基本路線とそれを裏付ける政策体系に発展させたこと。
研究をすすめるうちに、レーニンのこの転換は、六〇年代から九〇年代にかけての中国の経済路線の動きと、歴史を越えた共通点があることも分かってきた。
毛沢東時代、「文革」の指導方針の中心に位置づけられた「資本主義の道を歩む実権派との闘争」という方針は、「戦時共産主義」の時代の市場経済否定論にその原型があった。
また、トウ小平(しょうへい)時代に始まった市場経済の導入は、レーニンが「新経済政策」に転換した過程とたいへんよく似ている。歴史を見ると、同じ市場経済の導入でも、ベトナムの「ドイモイ(刷新)」の場合には、レーニンを研究しながら取り組んだ形跡が見られるが、中国の場合には、実践の必要にせまられて一歩一歩市場経済への取り組みを進めた、という色合いが強い。
一九二〇年代のロシアと、一九八〇年代の中国が、自国の経済の現実と切り結びながら、事実の圧力におされて、同じ道に足を踏み出したということは、かえって、問題の共通性を浮き彫りにするものとなっている。
そういう点で、市場経済へのレーニンの取り組みを系統だった形で紹介することで、いまその課題に取り組んでいる中国の人たちに、何らかの示唆をくみとってもらえるかもしれない。私がこの演題を選んだ気持ちは、ほぼそういう点にあった。