2002年10月3日(木)「しんぶん赤旗」
次の日程、唐家セン(とうかせん)外相との昼食会の約束は、正午。車は釣魚台に急ぐ。釣魚台の国賓館は、四年前の訪中の時も、さらにその三十二年前、一九六六年の訪中の時も、滞在したところである。大きな池やそのほとりの瀟洒(しょうしゃ)な亭など、風情豊かななかに、二十棟近い賓館が建てられている。三十六年前にくらべれば、建物は新しくなっているが、全体のたたずまいは以前の趣を残している。
一九六六年の訪中の時は、前にも述べたように、中国側が劉少奇(りゅうしょうき)を団長とする会談(三月上旬)と周恩来(しゅうおんらい)を団長とする会談(三月下旬)と、北朝鮮訪問をあいだにはさんで二度にわたって会談をおこなったから、この釣魚台には合計二十日ほども滞在したことになる。
国賓館といっても、当時は中国が国交を結んでいる相手国は少なかったから、外国政府の代表団の姿はほとんど見えなかった。
前日の社会科学院の昼食会の席で、その当時のこととして、「あのころは北京に長滞在しても、街を歩いて歓迎の垂れ幕はガーナ(アフリカ)のエンクルマ大統領へのものが目についただけだった。そのエンクルマ不在中に、ガーナで政権打倒のクーデターが成功するという思わぬ事態が起きたのを覚えている」と話したら、中連部からの同席者が「あのころは外交部はひまだったんだ」とすぐ相づちを打って、笑いを呼んだ。ともかく、そういう時代だった。
会食の場所は、十八号棟、よくこういう席に使われる建物。
建物に入って、唐家セン外相と握手を交わす。四年前の首脳会談でもいっしょだったし、三年前には東京で会談をしているので、テレビの画面での数多い登場ぶりともあわせて、旧知の印象である。続いて、王毅(おうき)副外相と程永華(ていえいか)アジア局副局長。王毅さんは初対面だったが、程副局長は、東京の大使館で顔なじみだった。
昼食会といっても、いきなり会食でなく、その前に、話し合いの席が設けられている。私の例の分類では、意見交換の「会見+宴会」方式にあたる。
あいさつのあと、「先日、アーミテージ国務副長官がやってきて話し合った」(唐外相)というところから、台湾問題に入った。
唐「そこで、『アメリカは、台湾独立の態度は支持(サポート)しない』と言明したのに、同行の記者に『支持しないとは、反対することか』と聞かれて、言葉に窮したと聞いた。『支持しない』が『反対もしない』というのは、言葉の遊びではないか」
不破「アメリカは『一つの中国』の立場を守る、といっているが、国内的には『台湾関係法』で、自分の手を反対の方向に縛ることをしている。この矛盾が、言葉のごまかしに現れるのではないか」。
こんなやりとりのあと、「この続きは食事をしながらやりましょう」というので、「その提案に『支持しない』ではなく、『賛成』します」と答えると、「その言葉づかいはアメリカ流ですね」(唐)。一同の笑いのうちに、食事の席に移った。
この席で、なかなか面白い場面に出あった。唐外相による通訳の実地訓練である。
「この人は、日本語がなかなかうまくなったので、今日はやってもらいましょう」と、若い女性の外交部員が指名された。通訳中、言葉が抜けていると、すぐその場で訂正の注意が飛ぶ。私には意味は不明だが、おそらく「この言葉が抜けている」といっているのだろう。ベテランの先輩がたくさんいるなかでのきびしい実地訓練だが、若い女性の部員は、臆(おく)せず、通訳をしつづける。途中で、先輩に交代したが、訓練をする方も、される方も、立派なものだ。
日本語といえば、会食中、外相自身のこんな体験談も出た。
唐「私は、一九六〇年ごろ、学生のころ、大学の図書館にあった『赤旗』で日本語を学んだんですよ。当時は日本語の書籍はなかなか手に入らなかったし、入っても、政治にかかわる文章は少なかった。『赤旗』を読むことが、いちばんの勉強でした」。
不破「その話を聞いたら、私たちは、“『赤旗』を読めば日本語が分かる”というスローガンを出さなければなりません」(笑い)。
私たちも気づかなかった「しんぶん赤旗」の思わぬ効用である。(つづく)