2002年10月14日(月)「しんぶん赤旗」
会食に入って間もなく、李鉄映(りてつえい)さんが、「先日、延安に行ってきました」と話しはじめた。延安は、抗日戦争当時の中国共産党の根拠地であると同時に、李鉄映さんの誕生の地のはずである。
「延安には、『日本人反戦同盟』の活動家たちを記念する碑があります。その指導者が岡野進、つまり野坂参三さんでした」。
これは、侵略戦争に反対する闘争での二つの党の連帯の歴史の象徴として、語りはじめた話である。しかも、食事の席で、客をもてなす好意をこめての話だが、野坂問題での誤解をそのままにしておくわけにはゆかない。考えてみると、野坂参三の除名の決定は一九九二年十二月、中国の党とは関係が断絶していた時期のことで、関係を回復して以後の四年間にこの問題を説明したことは、一度もなかった。
私は、「みなさんの食欲を刺激する話ではないのですが」と前置きし、「いま話のあった『日本人反戦同盟』の活動はたいへん重要な意義をもつものでした。その多くの活動家は、帰国後、日本共産党に入って、すぐれた党活動家になりました。しかし、その指導者だった野坂参三には、重大な問題がありました」と、ソ連解体後に明らかになった事実の経過を、歴史的に簡潔に話した。
――ソ連解体後、表に出はじめた秘密文書を、日本の週刊誌がモスクワで買い込んできて、野坂がコミンテルンで活動していた当時、保身のため、同志を日本の警察のスパイだとする偽りの告発をおこない、死にいたらしめたという資料を発表したこと。
――私たちは、モスクワに人を派遣して関係資料を入手するなど独自の調査をするとともに、野坂当人にも確かめ、野坂自身、偽りの告発という事実を認めたので、中央委員会総会(一九九二年十二月)で、除名を決定したこと。
――その後、さらに、延安から日本への帰国の途中、野坂は、秘密にモスクワに呼ばれ、赤軍情報総局に直結する工作員という任務をもって、日本に帰国した事実が明らかになったこと。この事実も、野坂が認めたこと。
私は、この話を、他国の共産党にたいするソ連の密室的な支配の陰謀と性格づけて語った。そのなかで、ヒトラー政権下の法廷闘争でナチの告発者たちを論破して世界に名をはせ、コミンテルンの書記長となったディミトロフが、コミンテルンの解散(一九四三年)とともに、一部長(国際情報部長)としてソ連共産党の組織に組みこまれ、ソ連のために秘密工作者を選定する役目を引き受けていたこと、野坂がソ連の赤軍情報部門につながる工作者となったのも、このディミトロフが人選してスターリンに推薦した結果であったことなどの、生々しい話は、李鉄映さんをはじめ、中連部の人たちにも衝撃的なニュースとして聞こえたようだった。もっとも、若い人たちには、ディミトロフといっても、まったく耳にしたこともない人物だったらしい。
ともかく、中国側の出席者の様子を見ると、私が「食欲の妨げ」になるかと心配したことは、まったくの取り越し苦労だった。
野坂が日本への帰国途上で変節したからといって、侵略戦争に反対して中国でたたかった「日本人反戦同盟」の活動が、その光を失うわけではけっしてない。
私は、中国共産党の関係を正常化する前に、「日本人反戦同盟」の歴史を研究している中国の研究者から手紙で依頼をうけて、日本に帰国して以後の「同盟」員の消息や関係資料を贈ったことがある。手紙をいただいた方のお名前を散逸させてしまったのが残念だが、両党関係の正常化が発表されたあと、中国抗日戦争史学会・中国人民抗日戦争記念館の共編『日本人民の反戦闘争』(北京出版社、一九九五年)を、著者の孫金科(そんきんか)氏から人伝てに贈っていただいた。鹿地亘氏の国民党統治地区での活動をふくめ、中国全土での「反戦同盟」の活動を克明に描いた、四百五十六ページもの大著である。その最初の部分では、日本国内における日本共産党のたたかいも、正確に位置づけられていた。
贈られた本には、表紙の次のページに、両党関係の正常化への熱烈な祝いとともに、私の「配慮」への感謝の言葉が書かれていた。あるいは私が依頼されて贈った資料は、この仕事の一部に合流するものだったのかもしれない。
いずれにしても、党と党のあいだの関係が断たれていた時期にも、日本共産党につながる反戦闘争を記録し、後世に残そうとする仕事が、中国の多くの研究者によってこつこつとおこなわれていた事実を知ったことは、たいへんうれしいことだった。(つづく)