2002年10月20日(日)「しんぶん赤旗」
二十九日の午後は、午後五時の中国国際放送局のインタビュー予定まで、「機動」ということになっていた。要するに、公的な日程のない自由時間である。
実は、私が「機動」という言葉を知ったのは、到着してすぐ、中国側が用意した日程一覧をもらった時である。事前の話し合いで、公的な日程は四日間で終わることになっていた。中国側は、私が今回は北京の外に出るつもりのないことを知っていたので、清の西太后がつくった頤和園(いわえん)など、北京市内の史跡の視察を提案してきたが、私はそれらはお断りして、北京の街をぶらぶらと「視察」する時間にあてたいと思っていた。到着してみると、日程は、私の希望通り調整されている。つまり、三十日の午前中は、ただ「機動」とだけ、書かれていた。そこで、意味が分かった。
日程表では、二十九日の午後は、政府閣僚である新聞弁公室主任の趙啓正(ちょうけいせい)さんと国務院で懇談をする予定になっていた。趙さんは、党中央でも、対外宣伝弁公室の責任者をつとめており、政府と党の両方の仕事を兼任している、中国でもごく珍しい立場の人だという。仕事の内容も詳しくは分からないし、どういう意味で、この日程が組まれたのかも、立ち入ったことは知らなかったが、マスコミ関係や対外宣伝などが任務の名称についている以上、日中関係の現状や今後について、違った角度から話す機会になるだろうとは、予想していた。
ところが、二十八日になって、中央弁公室から、趙さんのメッセージとして「抜けられない会議が開かれることになって、キャンセルせざるをえなくなった」という連絡があった。「ぜひお会いしたいと思ったのに、本当に残念なのだが、ご了解を願いたい」とのていねいな口上も添えられていた。
そのやむをえない事情も、やがて分かった。筆坂さんが、テレビのニュースを見て、「全国宣伝部長会議が始まっている」と知らせてくれた。党大会を前にした重要な会議であることは、当然、推測された。党の宣伝関係の責任者が、その会議をはずすわけにゆかないことは、組織人としてよく分かることだ。
こうして、二十九日の午後は、予定外の「機動」となったのである。
しかし、やむをえない事情とはいえ、私には心残りがあった。それは、趙啓正さんとの懇談に、内心、一つの期待をかけていたからだった。
それは、日中関係にかかわる問題である。
第一日の戴秉国(たいへいこく)部長との会談のさい、私が、日本・中国・朝鮮半島の三者のあいだに平和的な関係をきずくという問題を提起し、その一環として「中国の対外活動への希望」を述べたことは、すでに説明したが、その「希望」というのは、次のようなものだった。
――二十一世紀に中国の経済大国化は必然の方向で、日本では、二十年後には、中国のGDP(国内総生産)は日本を抜いて、世界第二位をしめるようになる、との見通しも語られている。
――それだけに、国際舞台で、中国の発展を好まない勢力が、中国の実像をゆがめて描きだし、「中国脅威」論を言い立てて、政治的“封じこめ”をはかるという動きに出ることは、当然予想される。これは、世界の世論の争奪戦ともいえる。
続いて、私は、こういう見方から出てくる外交姿勢の問題を提起した。
――そういう情勢のなかで、対政府外交と同時に、対国民世論外交をぜひ重視してほしい。それぞれの国や社会には、独自の価値観があり、論理があるが、そういう独自のものと同時に、民衆レベルでは、体制が違っていても理解し合える共通の道理がある。その共通の土俵をふまえた対世論外交が、これからいよいよ重要になってくると思う。
――半世紀前、中国が世界の多くの国とまだ国交をもっていない時期に、あなたがたは、平和共存五原則やバンドン会議十原則の提起の先頭に立って、世界の世論に大きな共感をよびおこした。いまでもその関係諸国の政治家や外交官に会うと、それらの平和原則の提唱に参加した歴史を誇りとしていることが分かる。
――それは、中国革命が勝利して、アジアと世界の力関係に大変動を引き起こした時期のことだった。いま二十一世紀を迎え、さらに力関係の新しい変化をもたらす時代が来ている。その時、社会主義をめざす国ぐにが、国際的な世論のあいだで、政治的・道義的な面での力を発揮するという問題に、いっそう目を向けることを、私たちは希望している。
私は、ごく一般的な形で話したのだが、中国側が、この問題提起に真剣に耳を傾けている様子は、一人ひとりの表情からも読みとれた。(つづく)