2002年10月21日(月)「しんぶん赤旗」
「宴会」のなかで、この提起について話が続いた。私は一般的な外交姿勢の問題として話したつもりだったが、戴秉国(たいへいこく)部長は、これをまず日中関係の問題として受け止め、そこから何が出てくるかに思いをめぐらせているようだった。
その後も、李軍(りぐん)局長代理との例の“車中会談”で、話は続けられた。戴秉国部長との会談のときには、「さあ、話してください」という調子で始まったから、中国側の問題意識をつかまないままでの話にとどまったが、断片的にもせよ、“車中会談”などを続けるなかで、私自身、現在の日中関係について、中国側が何を考え、どういう気持ちでいるかを、おぼろげながらにでも、つかめたような気がしてきた。
中国が、百年を単位とした社会・経済建設の課題に取り組んで、それを保障する平和的な国際環境を、切望しているということは、前に紹介した。そしてアジアでの平和な国際環境といえば、日本とのあいだに安定した平和と友好の関係を確保することが、最大の課題となる。
――ところが、日本と国交回復して三十年、最初の二十年あまりは、平和的関係が、多少の波風は立っても、基本的には順調に進んでいたようなのに、このところ、深刻なトラブルの連続である。しかも、そのトラブルの大部分は、日本の過去の侵略戦争の評価の問題にかかわってきている。過去の侵略戦争を反省するという問題は、日本と中国のあいだで、すでに公式に解決されていたはずの問題なのに、「歴史教科書」の問題や靖国神社への首相の公式参拝などで、なぜそれが蒸し返されるようになったのか、どうしてそんなことが起こるのか。
この事態をつかみかねている、というのが、実情のようだった。
――日本の侵略戦争が中国にあたえた被害は、中国政府の公式発表で一千万人を超えている。おそらく中国のほとんどの人が、少なくともその親族のなかに、何人かの犠牲者を持っているだろう。そういう被害を与えた日本の責任は、国際的にも明らかにされてきたが、その日本の政治のなかに、「あの戦争は正しい戦争だった」というような流れが公然と登場したとすれば、それをそのままにして、日中の平和な関係が成り立つはずがない。
だから、この歴史を否定したりあいまいにしたりすることは許せないが、そのことと、日中の平和・友好の関係がどうして両立できないのか。
日中関係の現状を心配するすべての人びとの話に、この当惑の気持ちが表れていた。江沢民総書記が、首脳会談で語った次の言葉も、その「当惑」を、そのまま表したものだった。
「小渕元総理とは、ここ(「中南海」のこと)でよい会談をしました。私も日本を訪問してよかった、と思います。……昨年は、貴国の小泉首相が、靖国神社を参拝しましたが、われわれの原則をゆるめることはしませんでした。その後、小泉首相は訪中して盧溝橋を訪れ、抗日戦争記念館にも行き、上海でのAPEC(アジア太平洋経済協力会議)首脳会合にも出席しました。しかし、今年四月には、ふたたび靖国神社を参拝しました。これは、私には理解できないことです」。
中国側のこういう気持ちは次第につかめていったが、このことを主題にしてゆっくり話す適当な機会がなく、短時間の会話の断続に終わっていたことは、ずっと気掛かりになっていた点だった。
会ってみなければ分からないことだが、この点に、趙啓正(ちょうけいせい)さんとの懇談への、私の内心の期待があった。だから、それがキャンセルになったことは、たいへん残念なことで、“しかし、交流の機会はまだいくらでもある。適切な機会を待とう”というのが、偽らざる気持ちだった。
ところが、二十九日の午後、趙さんからの新しい連絡がとどいた。「いったんあきらめたことだが、どうしてもお会いしたい。予定の日程をキャンセルした上で申し訳ないのだが、三十日の午前中に会っていただけないだろうか」というメッセージだった。
喜んで「合意」の返事をする。
これが、今回の訪中の最後の会談になるようである。(つづく)