日本共産党

2002年10月28日(月)「しんぶん赤旗」

北京の五日間(41)

中央委員会議長 不破哲三

30日 日中友好への共通の思い(一)


額に汗をにじませてかけつけた趙主任

 私たちの車は、国務院新聞弁公室の建物に、少し早めに着いた。趙啓正主任は、定刻に現れた。初対面の握手を交わすか交わさないかのうちに、「予定通りにお会いできなかったことをおわびします」という。「それは了解ずみのことです。もともと訪中の日程は、中連部の方から“変更があるかもしれない”という連絡を事前に了解してのことです。そして、昨日、全国宣伝部長会議が開かれ、あなたが出なければならない立場にあったことも、知っています」と私が言うと、「その会議はまだ終わっていないんです」との説明。まさにその席から、かなり無理をしてかけつけてきたらしい様子は、額ににじむ汗からもうかがわれた。

 さっそく、弁公室の副部長、国際局長も同席して「懇談」に入る。配置は「会見」方式である。

「私はいままでに十五回ほど日本に行っている」

 趙主任は、日本の電子工業界や自動車業界との最近の事情について、若干のべたあと、「不破議長のお話をうかがいたい」という。私は正直にいって、何を主題としたいのか、つかみかねた。そこで、失礼を承知で、趙主任に反問した。

 「あなたがたが持っている問題点をもう少し話してもらった方が効率的でしょう。私たちは、電子工業界の代表でも自動車業界の代表でもありませんから。どういうことの解明が求められているのか、出してもらえると話しやすい、と思います」。

 「では」と趙さんは話しだしたが、それは、日中関係に長くたずさわってきた人の、真情をこめた話だった。

 「私はいままで十五回ほど日本に行っています。政治家、企業家、学者、知識人と数多く会って、対話をしてきました。私自身は政治家になったのは、ここ十七年程度です。もともとは科学技術の専門家として、二十年、研究をしてきました。そういう点では、外交部よりも言うことが率直かもしれません」。

 こういう自己紹介だったが、私も、趙さんが、私より十年ほど若いが、大学は私と同じ物理学の出身であることを知っていた。

中国と日本のあいだには、共通の文化的基礎がある

 趙主任は、「中日関係」の問題を話したいといって、まず、中国と日本とのあいだにある共通の文化的な基礎の問題について、語りだした。

 ――中国と日本のあいだには、西洋とは違った文化的共通点がある。日本の人たちはよく、日本は中国から文化を輸入した、といわれる。確かに漢字は中国から行ったものだが、その後、文化を中国に返しているという側面もある。

 ――たとえば、日本は西洋の文化を漢字化して中国に返している。「共産党」という言葉さえ、もとは中国の言葉ではなく、日本から入ってきたものだ。『共産党宣言』も、一九一九年に日本語版から中国語に翻訳された。国際法や商法、訴訟法なども日本から入ってきた。十九世紀、二十世紀初期まで中国は封建社会で、為政者は理解しなかったのだが、中国から日本に留学した人びとが持ち帰ってきた。私の祖父も、明治三十六年から三十八年まで、日本の法政大学に留学していた。文化的にこれほどつながりのある国は、ほかにはない。日本の次は、韓国だろう。

 ――私は、京都を訪問したとき、書道や茶道などを見て、共通の文化的基礎を感じた。これは、ヨーロッパやアメリカの人たちが追いつこうとしても、追いつけないものだ。超えようとしても超えられないものだ。日中間には、共通の文化的基礎というものがある。ヨーロッパの友人と話しても、そういう点ではどうしても日本には及ばないという。中日関係には明るい未来があり、それは時間がたったからといって、消失するものではない。

 語り続ける趙さんの言葉の奥には、日本と中国との友好の関係を願う強い熱意が感じられた。日本を十五回も訪問し、日本の各界との対話を重ねてきた歴史が深いだけに、友好の関係と逆行する最近の動きについて、「なぜ、こうなるのか」という「当惑」の気持ちが、ひときわ強いようだった。(つづく)

 訂正 26日付(第39回)下から二段目、「王府」とは「皇帝の邸宅だった」という記述を、「皇族の邸宅だった」と訂正します。

 


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