2003年8月28日(木)「しんぶん赤旗」
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その夜は、チュニジア側主催の夕食会が、ホテルのプール横の野外宴会場で開かれた。
大きく張られたいくつものテントにテーブルを連ねた自由な会食である。
席に着く前に、緒方さんと顔なじみのシリアの社会主義アラブ・バース党のアフマル副書記長とばったり。さっそく、名刺を交換し、あいさつをかわす。
しかし、代表団のなかで、もっとも大きな比重をしめるのは、アフリカ諸国、とくにサハラ砂漠以南の国ぐにの代表である。
私たちが座ったテーブルも、私たち以外の席は、全部アフリカ勢で占められていた。あいさつして、どこの国かと聞くと、いちばん大きな体をした責任者風の人物が、「ナイジェリアだ」という。人口一億二千万人、アフリカ随一の人口大国である。
名刺を渡して、日本の共産党だというと、「自分たちは全ナイジェリア諸民族党、野党だが強い党だ」と説明。ならぶ席の一人ひとりを「野党でも、この人は知事で、次の人も別の州の知事だ」と紹介する。あとで、名簿を調べて、ナイジェリアからは、二つの政党から十二人の代表が参加していて、私たちが同席したのは、全ナイジェリア諸民族党の代表団七人ともう一つの政党・諸民族民主党の代表だったと分かった。責任者風と見えたのは、全ナイジェリア諸民族党の方のドン・オポト・エテイベト党首だった。
日本共産党についての予備知識はまったくなかったようで、緒方さんが国会議員や地方議員の数を話すと、驚きの連続。興味津々(しんしん)という様子である。同じ大陸でも、ロンドン経由で来たとのこと、アフリカ大陸内部での交通の不便さが分かる話だった。
森原さんは、別のテーブルで、やはりアフリカのトーゴの代表と隣り合わせたとのこと。ナイジェリアとトーゴは、同じくギニア湾に面して比較的近い国だが、ナイジェリアが以前イギリスの植民地だった(一九六〇年独立)のにたいし、トーゴはフランスの信託統治下にあった国(一九六〇年独立)。通用するヨーロッパ語が、ナイジェリアは英語だが、トーゴはフランス語というように違っている。
五十数カ国におよぶアフリカの国ぐにについて、その国、その社会なりの特徴をつかむことは、地理的に遠い私たちにはなかなか大変なことだが、二十一世紀の世界外交を考えると、これも避けることのできない大事な課題になるだろう。
食事中、別の席にいた尾崎さんが、ベンヤヒア外相が隣のテーブルにいる、と知らせてくれた。ベンヤヒア外相は、実は、初代の駐日大使で、一九七七年に東京にチュニジア大使館が開かれてから五年間にわたって大使を務め、チュニジアと日本の友好関係の開拓に力をつくした人物。尾崎さんは、当時、アラブ連盟の東京事務所にいて、いろいろ協力した経歴をもっており、外相とはいちばん古い知り合いということになる。
さっそく、外相の席に出向く。ヨルダンの国会議長と懇談の最中だったが、顔をあわせるなり、「今回、不破議長が私たちの大会のため、遠路はるばるチュニジアを訪問されたことを、心から感謝し、歓迎します」と手を差し伸べてくる。握手を交わしながら、私が「ご招待に感謝します。二〇〇〇年十月の東京での会談から三年ぶりですね」というと、「三年前の会談のことは、よく覚えています。滞在中に、時間をとって話し合いましょう」と答える。
この暑さも、この席で話題となった。「暑くて申し訳ないですね。こういうことはチュニジアでも異例のことなんです」とベンヤヒア外相。暑さは自然現象であって、別にチュニジア政府の責任ではないのだが、さすが外交官というところか。
そのあと、ヨルダンの国会議長とあいさつ。与党(国家立憲党)党首のマジャーリ氏で、緒方代表団の昨年のヨルダン訪問が話題になる。(つづく)