2003年8月29日(金)「しんぶん赤旗」
到着第二日目・七月二十八日。八時間の時差の影響で、睡眠の調子はよくない。朝早くからごそごそはじめ、緒方さんを誘って、朝食に向かう。ここの食事は、朝・昼・晩、すべてバイキング方式。必要と思われるだけの料理とパンをとって、適当に席に着く。
向かいに座った人物とあいさつすると、ドイツの民主的社会主義党の代表のウィンター氏だった。一九七〇年代に、東ドイツの大使としてチュニジアに赴任していた、という。
「ぜひカルタゴに行ってください。そしてその機会に、ぜひシディの海岸もたずねてください。私の好きなところで、昨日も、ホテルに着くなり、そこへまわってもらい、夕日が沈むまで好きな風景を見ていたんです。チュニスでは、バルドー博物館は見る価値があります。そこの整備には、私も協力しました」。
バルドー博物館は、来る前に駐日大使からも勧められていたところで、市内に出るときには、見るつもりでいたが、シディとははじめて聞く地名である。今後の日程に役立つありがたい助言だった。
民主的社会主義党は、東ドイツの解体後、政権党だった社会主義統一党の流れをついでできた政党だが、私たちと交流もあり、いろいろな面で、注目してきた政党だった。
実は、東ドイツの解体にいたる最後の時期に、政権党の社会主義統一党と私たちとのあいだに、一つの論争問題が起きていた。それは、日本の自民党政権の評価にかかわる論争だった。東ドイツの党が、あるきっかけから、自民党政権の代表者を「平和の政治家」として天までもちあげるようになったところから、起こったものだった。私たちが、非公開の忠告として、事実をていねいにあげて問題点を指摘したところ、ドイツ側が、「聞く耳持たぬ」式のあまりにも頑固な態度で対応してきたので、いささかあきれさせられていた。
その途中での体制崩壊である。私たちは、これで一件落着のつもりでいたが、やがて、新たに再組織された民主的社会主義党の指導部から手紙が寄せられ、ついで名誉議長モドロウ氏の来日があった。
モドロウ氏は、わが党との話し合いのなかで、旧東ドイツ時代の私たちとの論争問題を率直にとりあげて、当時のドイツ側の見地と態度が誤っていたこと、自分たちはそのことに気づいて問題提起はしたが、誤りを正すまでの力がなかったこと、今回、その誤りをきちんと正したいと思うことを、きちんと説明した。
過去の時代に過去の党が犯した誤りであっても、再組織した党が責任を負って正す―その誠実な態度に、私たちは心を打たれたものだった。
こうして、民主的社会主義党との交流が始まり、私自身、その後、同党のモドロウ氏が再び訪日したさいには、話し合う機会をもった。
理論の問題にも熱心な党で、私たちの活動に、理論面をふくめて、大きな関心を寄せてくれていた。二〇〇〇年十一月に、モドロウ氏(当時は、党の名誉議長)とマンフレート・ゾーン氏(ドイツ共産党前書記)との共同編集で、日本共産党紹介の本が出版されたのも、その重要な現れだった。
『大きな飛躍か―日本共産党の政策の概観』という表題で、次のような構成である。
「I 日本共産党の発展の歴史的背景と基本条件
II 一九四九年以来の日本共産党とドイツの社会主義者との交流の変遷
III 今日の日本共産党―概観
IV 文献
日本共産党の綱領
日本共産党の規約
V 日本共産党の政策にとっての理論活動の意味
例一:不破哲三『エンゲルスと「資本論」』
例二:日本共産党の理論的立場についての不破哲三のインタビュー『世紀の転換点に立って』
数字で見た日本共産党」
最後の二つの章以外は、すべてドイツ側で執筆した独自の日本共産党研究で、第二章の交流史の部分には、自民党政治の評価をめぐる論争問題の経過と反省が、飾らない筆致で叙述されている。
こういう形で、日本共産党の活動・歴史・理論が紹介されるということは、私たち自身、他の諸党との関係でも、ほとんど経験のないことだった。(つづく)