2003年9月12日(金)「しんぶん赤旗」
明日は大会最終日。帰国する代表団も多いだろうし、相談して、この日の午後は、大会参加の代表団との外交活動で残された仕事の解決にあてることにした。
今回の訪問にあたっては、一九九九年の東南アジア訪問の経験を生かして、「日本共産党のプロフィル」の今日版を用意してきていた。
これまでかなり多くの国の代表と交流して、新しい友人をつくってきたが、初対面の人たちにたいして、政治的な自己紹介がきちんとできているわけではない。それで、交流の糸口のできた代表たちに、あらためてあいさつしてまわり、「日本共産党のプロフィル」や綱領改定案(英語訳)を手渡そう、ということを決めた。
この仕事は、森原さんに引き受けてもらったが、あとで聞くと、十九カ国、二十三の政党の代表に渡した、とのこと。
もう一つは、コートジボワール(象牙海岸)の若い国会議員との会談。この議員とは、毎日のようにエレベーターの乗り場で会う。すれ違いの時もあれば、同じ箱に乗り込むこともあるのだが、多い時は一日に四回顔をあわせたこともあった。しかし、なかなか話し合いの時間がとれず、この日の午後にまで持ち越しになっていたのである。
午後二時、一階のロビーで、緒方さんと二人で会う。
会って詳しく事情を聞くと、日本事情をこの場で聞きたい、という注文ではなかった。
国会で、もう一人の同僚と日本担当に任命されたというのは、日本の国会との交流の道を開く、という任務なのだとのこと。しかし、どういうやり方で連絡をとってよいのか、分からないので、何とか助言してほしい、という要請だった。
そこで、日本の国会が二院制であることをはじめとする国会事情や、頭に入れておく必要のある今後の政治日程などを具体的に話すと、「そういうことが聞きたかったのだ」と、表情ががぜん明るくなった。日本担当に任命されたものの、五里霧中で途方に暮れていた、というのが、偽らざる実情だったようだ。説明を終えたあと、「あなたはこれで、コートジボワールで日本の国会事情にもっとも詳しい人物になった」というと、照れながら実にうれしそうに笑う。
国会議員としての経歴を聞くと、「まだ国会は当選第一期、来年が二期目の選挙だ」というので、「日本との交流の事業の成功とともに、あなたの二期目の当選を願う」と握手して別れた。
これで、宿題の一つは解決である。
最後の約束は、中国の代表団との会談である。連絡をとると、夜八時からの会談を願えないか、という回答。それに応じることにしたが、それなら、それまでに夜食を片づけておかなければならない。
そのつもりで、少し早いが、と思いながら、六時半ごろ、いつものレストランに行くと、お客は誰一人いない上、食事の用意もない。聞くと、「夜食は午後八時半からです」との返事だ。これまで、だいたいその時間帯に来ていたから、気がつかなかったのだが、どうもチュニジアでは、夜食時間が私たちの常識とはだいぶずれているらしい。
これは、あとの話になるが、ハマムさんに普通の家庭での夜食の時間を聞いたら、「夏はだいたい午後十一時ごろ」だという。「朝は」というと、「これは年中変わらず六時ごろ」との回答。「じゃあ、夏は寝る時間がなくなるじゃないか」と驚くと、「夏は寝ないんですよ」といっそう驚かされる回答。
よくよく聞いてみると、夏は昼寝が習慣になっており、その分、仕事が夜にかかるから、夜食はおそくなる、しかも、外国に働きに出ている家族が帰ってくるから、一家だんらんで夜はだいたい寝ないで過ごす、との説明だった。つまり、夜寝ない分を昼寝でとりもどし、仕事と食事をそれにあわせているのが、チュニジアの夏の生活リズムだということらしい。「夜は寝ない」という説明にどれだけ普遍性があるのかには、いささか疑問が残ったが、思わぬ機会から、暑熱の国の夏の生活様式の一端がうかがえたのは、収穫だった。
それはそれとして、夜食はルーム・サービスのサンドイッチを注文したが、注文の直後に中国代表団から連絡あり。地方に出掛けたところ、帰路のラッシュで到着がおくれる、会談は十時に延ばしてくれないか、との要請。こうして、会談は、深夜の会談となった。(つづく)