2003年9月14日(日)「しんぶん赤旗」
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両党関係の過去の断絶への反省をふくめた馬団長の発言について、私は、日中両党関係の正常化にいたる経過をあらためてふりかえりながら、その時、私たちが、中国側の対応に「真剣な誠実さ」を感じたこと、この誠実さはおそらく「社会主義にたいする真剣さ」に通じるものがあると考えたことを話し、日本共産党としては、「中国共産党とわが党とのあいだの歴史問題は、完全に解決された」と考えていることを伝えた。
馬団長は、過去に両党間に起こったことは「本当に、いま振り返ってみても重要な出来事だった」と応じ、「今後、日本と中国の関係を発展させるうえでも、両党の友好関係が重要な役割を果たすことは間違いない。そのために、これまでの遺産をさらに発展させることの重要性を感じた」と発言した。
馬団長は、日本共産党との関係や交渉とは直接のかかわりをもってこなかった人物である。しかし、今回のやりとりは、日本共産党との歴史および現在の関係の問題が、対外関係にかかわる人たち全体の共通の理解となっていることを、おのずから物語るもので、それだけに、たいへんうれしい気持ちで受け止められる会談だった。
アフリカ・中東の問題では、馬団長の報告は、具体的なものだった。アフリカ諸国と中国との関係の歴史、アフリカ諸国がいまもっとも必要としているものはなにか、イスラム諸国の状況、中東諸国の直面する問題点、湾岸諸国の独特の状況など、ほぼ一時間にわたった。最後に、湾岸諸国の前向きの動きが表れている実例として、自分たちが、チュニジア訪問の帰途、サウジアラビアを訪問すること、これがサウジアラビアへのはじめての訪問になること、について話した。
私は、詳しい説明への謝意を表したあと、アフリカ、中東、イスラムの問題では、「私たちの短期間の経験でも、共通の認識がある」と述べ、とくにサウジアラビアとの関係が、この十年間にどう変化してきたかを手短に説明した。そして、昨年十月の緒方代表団の中東歴訪のさい、サウジアラビア側からの要望で、訪問先にサウジアラビアを追加し、代表団が訪問して政府代表と話し合ったことを伝えた。
これには、馬団長はたいへん驚いたようだった。「誰の招待でか」と反問する。その驚きがうつったのか、緒方さんがあわてて「大使の招待……」といいかけたが、出先の機関である大使に、招待の権限などあるはずがない。私が「政府の招待です」と言いなおすと、馬団長も「私たちへの招待も、大使館とのよい関係のなかで実現した」と語る。
いずれにしても、イスラムの盟主といわれる国で起こっている新しい動きを、二つの党が同じ時期に共通して感じ、共通の対応をしているということは、意味深いことだった。
最後にあいさつをかわしあって、握手して別れたのが、午前零時半。日本の国会の会期末によくある、翌日に時間が食い込んでの、日付的には二日がかりの会談となったが、それだけの意義と実りのある会談だった。
聞けば、中国代表団はこれから夜食で、朝六時には、サウジアラビアに向かうためにホテルを出るという。“お互いに強行軍の日程だな”と思わされた別れだった。
実は、この会談は、二重通訳での会談となった。中国側に日本語の通訳がいないためである。馬団長の話を中国側通訳がフランス語に訳し、それを緒方さんが日本語に訳す。私の発言の時は、その逆に進行する。
二重通訳の難点は、時間が倍かかることと、通訳の第一段が終わった時に、発言者が勘違いして、次の発言をつい始めてしまうことである。私も、緒方通訳が終わったところで次の話をはじめ、あわてて中断したことが何回かあったが、馬団長も同じだった。
時間が十二時を回ったとき、私は「時間短縮」のためにといって、一つの提案をした。「緒方さんは学校の専攻は中国語。三十年使わなかったからさびついていると本人はいうが、私の発言を緒方さんに中国語で通訳してもらうことにしたいが、どうだろうか」。
ところが、緒方さんが、この発言は通訳してくれない。日常会話なら平気だが、公式の発言の通訳は困る、と頑張る。やむをえず、発言も通訳も、多少スピード・アップするということで、なんとか会談を零時半までに終わらせた。
私は、最後に、もう一つの提案をした。「最後にお願いがある。緒方さんの中国語をここで簡単にテストしてくれませんか」。そこで緒方さんが、はじめて中国語でしゃべった。中国側いわく。「フランス語より分かりやすかった」。(つづく)