2019年4月30日(火)
誓い 戦争体験者の9条
戦艦「大和」に乗艦経験 成相喜代一さん(91) 島根・出雲 共産党元市議
小学生に平和紙芝居
日本国憲法は5月3日、施行72年を迎えます。日本のアジアへの侵略戦争、1945年8月15日の敗戦を受け、世界に二度と戦争をしないと誓った日本国憲法。安倍政権はいま、「戦争する国」づくりと憲法改悪を狙っています。悲惨な戦争を体験した人たちに憲法への思いを聞きました。
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戦後間もないころに作られた紙芝居「平和のちかい」を今も大切に保管している成相喜代一(なりあい・きよいち)さん(91)=日本共産党の元島根県出雲市議=。毎年、広島への修学旅行を控えた地元の小学生の平和教育で紙芝居を読み聞かせしています。
玉砕決意
「平和のちかい」は長田新編「原爆の子」を原作に広島の惨禍を乗り越えてたくましく生きる少女の姿を描いている紙芝居です。成相さんは戦後、働きながら夜間大学で勉強したいと出雲市から上京。休日になると公園などで子どもたちの前で上演していました。10年後、故郷に持ち帰り地元の小学校や原水禁運動での上演を今も続けています。
そんな成相さんですが戦前は「軍国少年だった」といいます。小学校高等科では級長として軍事教練の先頭に立ち約500人の児童に号令をかけ、わら人形に向かい刺突訓練などをしていました。
青年学校を経て1944年2月、16歳で海軍志願兵として横須賀の海軍航海学校に入隊しました。卒業後は愛媛県西条市の海軍航空隊へ配属。日本軍が占領した中国大陸や南太平洋の各地から入電してくる暗号文のデータで天気図を作成し、航空隊の司令に報告する任務でした。
成相さんは上官からの特別な配慮によって、巨額を投じて建造され、呉にドック入りしていた世界最大の戦艦「大和」に1日乗艦する機会を得ました。司令塔の中をエレベーターで上がり艦長などが指揮をとる最上階の作戦室も見学しました。
終戦直後は「アメリカ軍を迎え撃ち日本男児らしく玉砕しよう」と決意したこともあるといいます。しかし1年後に転機が訪れます。
真の愛国
上京し焼け野原となった東京の街並みや焼けたトタン屋根の小さなバラック小屋に住む人たちを目の当たりにし「戦争というのはこんなにも残酷なものなのか。なぜ戦争をしていたのか」と改めて実感しました。その中で“平和な日本へ”と訴えたビラを配っていたのが日本共産党の人たちでした。これまで共産党は国賊だと思っていた成相さん。戦争に反対している党があったことを初めて知り「本当の愛国者はこれだ」と心を動かされ入党を決意。帰郷した後は木工の自営業を経て日本共産党の出雲市議を8期30年間、務めました。
「戦争時は外に明かりが漏れないように風呂敷で電灯を覆ったりしていた。明るい電灯の下でご飯が食べられることが“平和”の実感だった」と話す成相さん。46年に公布された日本国憲法を手にしたときは「それはうれしかった。戦争はしない。軍隊を持たないなど解放感があった」。(原千拓)
絶対繰り返さない
「人殺し商売」の海軍精神
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第2次世界大戦中、軍国少年だった成相喜代一さん(91)=元党出雲市議=。日本軍がハワイ真珠湾を奇襲した際に特殊潜水艇で体当たりしてアメリカ軍艦を撃沈させた「九軍神」に憧れ「自分も九軍神に負けない軍人になるんだ」と机に飾った写真に誓いを立てていたほどでした。
母は何とか上級学校に進学させたいと貧しい中で懸命に働いていましたが、小学校6年生の卒業式を目前にして過労で他界。進学を断念し、なんのためらいもなく横須賀の海軍航海学校に入学しました。
たたかれ
新兵教育が始まると待っていたかのように「おまえたちはこれからシャバの人間ではない。人殺しが商売だ」と言われ「海軍精神注入棒」と書かれた野球バットよりも太いカシの木の棒で尻をたたくしごきにあいました。最低3発はたたかれ歩けないほどでした。「恐ろしいところにきた」と思いましたが、立派な軍人になるためならばと耐えました。気象兵として気象学やモールス信号などを学びました。
航海学校を卒業し1944年の夏、愛媛県西条市の海軍航空隊に配属。ところが戦局の悪化から日本軍の占領地からの入電が次々と途絶え、天気図を書きながら戦局が重大化していることを感じました。すでに大艦巨砲方式から航空戦へと変わり、1日乗艦した戦艦「大和」も対空用の重機関銃を装備する大修理が行われていました。
友も犠牲
「大和」は45年4月7日に沖縄海上特攻の途中、米軍機の集中攻撃を受け、鹿児島県坊ノ岬沖で沈没しました。乗員3332人のうち生存者は276人。青年学校時代の同級生の1人も犠牲になったということを後に知りました。
沖縄戦が始まると西条市の航空隊からも連日、若い少年航空兵が特攻隊として飛び立っていきました。出撃のときは航空隊員が総出で帽子を振って見送りました。特攻機は飛行場の上空で翼を上下に振って別れを告げました。「もう帰ってこないんだな」と涙をぽろぽろ流しながら機影が消えるまで見送りました。
45年8月15日の昼ごろ、飛行場に航空隊全員が整列して天皇のラジオ放送を聞き日本が戦争に負けたことを知りました。そして沖縄に続き土佐湾から米軍部隊が上陸してくるということを知り、「戦争に負けておめおめと故郷に帰れない」と、若い少尉を頭に成相さん含め7人の若い兵士と一緒に、その日にそれぞれが親たちに遺言状を送りました。トラックに武器や弾薬、食料などを積み、四国山地の石槌山のふもとの一軒家の地下室を借りて立てこもりました。ところがアメリカは戦闘部隊の上陸ではなく占領軍として進駐しました。自分たちの行為の無意味さにやっと気づき終戦から2カ月後に下山しました。
故郷に突然帰ってきた成相さんを見て、生きては帰ってこないと思っていた家族はとてもびっくりしていました。仏壇には自分が書き送った遺言状が大事に供えてありました。
「『大和』の全長は263メートルで、安倍政権が空母に仕立てようとしている護衛艦『いずも』は248メートルと、ほとんど同じ。安倍首相は『いずも』に、トランプ米大統領言いなりで100機以上も“爆買い”したF35ステルス戦闘機を載せようとしている。軍国主義は、そこまで来ている」と周囲に呼びかけている成相さん。今あらためてこう訴えます。
「戦争は絶対に繰り返してはいけないという思いが心から離れない。自分の目が黒いうちに何とか安倍政権を倒してから目をつむりたい。今憲法に手を付けてはいけない」