2019年8月26日(月)
証言 戦争
貧しくて居所なく
愛知・尾張旭市 高垣敏子さん(88)
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戦前も戦後も 「満州」でも日本でも
愛知県尾張旭市の高垣敏子さん(88)は9条の会の宣伝に連れて行った孫たちから思わぬ言葉をかけられました。
孫の言葉に思う
「あんなことをして何になる」
「じゃあ、あんたたちはどうしたらいいと思うの」と返した高垣さん。その心は、生まれ育った「満州」(中国東北部)や引き揚げ後のつらい体験から、「戦争する国にしない。苦しんで作った憲法を守り抜く」との思いでした。
高垣さんは日本の中国侵略が本格的に始まった1931年に大連近郊で生まれました。7人兄妹の3番目です。両親は貧しくて日本に居場所がなく、中国に渡った者同士でした。
父は三重県安乗(あのり)村(現伊勢市)で生まれ育ちました。海女で稼いでいた母親を14歳の時に亡くし、青島にいた兄を頼って中国に渡りました。その後、大連で当時、日本の「満州」への植民地支配の手段となっていた南満州鉄道(満鉄)に臨時工として雇われました。母は長崎県で小作農よりさらに貧しい馬喰(ばくろう=牛馬を仲買する商人)の家に生まれました。10代から作女(さくおんな)や紡績工場の仕事をし、中国の長姉の嫁ぎ先で女中になりました。
黒竜江省の西部にあるチチハルから昻昻渓(こうこうけい)に転勤したところで敗戦を迎えました。危険を避けるために高垣さんの家族はチチハルに逃げることにしました。
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母は42歳で一番下の子を産んだばかりで体が弱り、乳飲み子は首も座らず、父も体が弱く、兄と姉は学徒動員と軍属で不在―。14歳だった高垣さんは「自分がしっかりするしかない」と思いました。
午前8時に昻昻渓を歩いて出発しました。道中で銃声が聞こえ、歩けなくなったおばあさんが射殺されたと周りが話していました。歩いていると中国人が荷馬車で来て「乗れ」と声をかけました。父の月給300円の当時で1人500円だと言います。「母を乗せ、子どもたちは走り、妹たちが走れなくなると順番に乗せました」
何とかチチハルにたどり着き、父の同僚の家に身を寄せました。6畳の部屋に家族7人。チチハルにいた人たちは家財を売って食いつなぎましたが、逃げてきた高垣さん一家には何もありません。中国人があめやコーリャン、野菜を売るための呼び込みをやったり、タバコの葉を百科事典の薄い紙で巻いて売ったりしました。
「戦争が終わったのにチチハルにいたのは、日本政府が『日本には食糧がないから帰ってくるな。外地で生活せよ』という方針で、外地の日本人の扱いをソ連などに委ねてしまったからです。GHQ(連合国軍総司令部)による引き揚げ指令でようやく私たちは1年後に帰ることになりました」
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学校に行きたい
佐世保港に着いて長崎県内の母の実家に一晩泊めてもらい、伯母の家で数日過ごしました。「ここに住んだら」という伯母の言葉を期待しましたが、「おられたらどうしよう」というのがひしひしと伝わってきました。
三重県の父の里の漁村に移り、水揚げしたイワシを煮干し工場に運ぶ仕事をしました。慣れない仕事でイワシが重くて立てず、やっと立ってもよろよろ。重みで両肩の皮が破れて血が出ました。父が鍛冶屋の仕事に就いてその手伝いを始めたころは17歳でした。材料の買い付け先で女学生を見かけ、それまで考えないようにしていた「学校に行きたい」という気持ちがあふれ、家で布団をかぶって泣きました。
「学校に行かなかったので、新憲法ができても主権在民とか、勉強する権利とか知らなかった。どんなにいい法律ができても勉強しなければ分かりません。若い人たちにはどうしたら自分たちの生活がよくなるのか考えてほしい。私も若い世代に自分の体験を伝え、憲法9条を変えようとする安倍政権をやめさせるために頑張っています」(小梶花恵)