2021年6月23日(水)
主張
沖縄「慰霊の日」
遺骨眠る土砂 新基地に使うな
沖縄はきょう、1945年のアジア太平洋戦争末期の沖縄戦で命を奪われた20万人余の犠牲者を追悼する「慰霊の日」を迎えます。最後の激戦地となった本島南部の摩文仁の丘にある平和祈念公園(糸満市)では「沖縄全戦没者追悼式」が開かれます。菅義偉政権は、戦没者の血が染み込み、いまだ多くの遺骨が眠る、この南部の土地から土砂を掘り出し、名護市辺野古の米軍新基地建設の埋め立て工事に使おうとしています。県民の平和への願いに背く「戦没者への冒涜(ぼうとく)」を許してはなりません。
幾万の屍がるいるいと
沖縄戦では、日本側18万8136人(うち県出身者12万2228人)、米側1万2520人の計20万656人が戦死しました(県発表)。「それら(日本側)の死体の多くは、少なくとも死後半年から一年以上放置され、沖縄本島南部を中心とした地域のいたるところに散乱していた」(『沖縄県史各論編6沖縄戦』)と言います。
多くの県民が避難していた南部は、日本軍(第32軍)司令部が首里(現・那覇市)から撤退してきた結果、軍民混在の「地獄の戦場」と化します。このため一般住民の犠牲が大きく広がりました。「ひめゆり学徒隊」の引率教師の1人だった仲宗根政善氏は「凄惨(せいさん)をきわめた戦野には、幾万の屍(しかばね)がるいるいとして風雨にさらされ、亡魂恨み泣き、身の毛のよだつ荒野となった」と書いています(『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』)。
戦後最初期、米軍収容所から南部の米須(現・糸満市)に移動を許された真和志村(現・那覇市)の人びとが遺骨収集を始めます。自身も2人の娘を亡くし、遺骨収集の中心となった金城和信村長の妻ふみさんは手記で「御遺体は…石垣のそばにも、洞窟の中にも、道ばたにも、畑の中にも、到るところに放置されてゐました」「阿檀の茂みの中に、一家全員(五名)が抱き合って散華した御遺体がありました。…母の手をしっかり握ったままの小さい女の子、学用鞄を肩からさげてゐた男の子、痛ましいその場の光景が、いまでもこの目に浮んできます」と語っています(金城和彦著『嗚呼沖縄戦の学徒隊』)。
菅政権は昨年、辺野古新基地建設の埋め立て予定海域に軟弱地盤があることを認め、その改良のための設計変更を県に申請しました。それによると、当初は本島北部地区に限っていた県内の土砂(岩ズリ)採取場所に南部地区(糸満市、八重瀬町)などが加えられました。しかも、県全体の岩ズリの調達可能量約4476万立方メートルの7割に当たる約3160万立方メートルが南部地区からとされています。
これに対し沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」代表の具志堅隆松さんが抗議のハンストを決行し、県議会や県内市町村議会も次々と戦没者の遺骨が混入した土砂を埋め立てに使わないように求める意見書を可決しています。
菅政権を終わらせよう
菅首相は官房長官時代、当時の翁長雄志県知事が沖縄の苦難の歴史を語り、辺野古新基地反対を訴えたのに対し「私は戦後生まれなので、沖縄の置かれてきた歴史はなかなか分からない」と言い放ったことがあります。新基地建設の埋め立て工事をやめさせるためには、菅政権を終わらせなければなりません。