日本共産党創立101周年記念講演会
歴史に深く学び、つよく大きな党を――『日本共産党の百年』を語る
志位和夫委員長の講演
2023年9月15日
全国のみなさん、こんばんは(「こんばんは」の声)。ご紹介いただきました日本共産党の志位和夫でございます。きょうは、私たちの記念講演会にご参加いただき、まことにありがとうございます。
七月に発表した党史『日本共産党の百年』に対して、党内外から大きな反響が寄せられています。私は、先日、ある著名な評論家と懇談する機会がありました。この方は、お会いするなり、「百年党史を読ませていただきました」とのべ、次のような感想を語ってくれました。
「歴史から深く学び、正義を貫く。百年党史を読んで、これが日本共産党の歴史、役割だと思いました。百年の歴史で、アメリカにも、ソ連にも、中国にも従わなかった。日本共産党こそ、『自立自尊』の立場で一貫してたたかってきた愛国者の党です」
たいへんにうれしい評価であります。
きょうは、「歴史に深く学び、つよく大きな党を――『日本共産党の百年』を語る」と題して、『百年』史そのものを主題にしてお話をしたいと思います。
生きた攻防と成長のプロセス――「たたかいの弁証法」を明らかに
『百年』史の編纂(へんさん)にさいして、私たちが最も心がけたのは、わが党が、古い政治にしがみつく勢力から、つねにさまざまな非難や攻撃にさらされ、それを打ち破りながら、自らの路線、理論、運動、組織の成長をはかっていく、生きた攻防と成長のプロセスとしての歴史を明らかにすることでした。
日本共産党の歴史には、順風満帆な時期、たんたんと成長した時期はひと時としてありません。つねにさまざまな迫害や攻撃に抗しながら、自らを鍛え、成長させ、新たな時代を開く――私たちはこれを「階級闘争の弁証法」=「政治対決の弁証法」と呼んでいますが――、そうした開拓と苦闘の百年でした。『百年』史では、その全体にわたって、そのことが浮き彫りになる構成と叙述となるように努めました。
わが党が、歴史の節々で直面した試練に対して、どういう姿勢で立ち向かい、どうやって自らを成長させていったか、『百年』史がそのことをどう描いているかに焦点をあてて、きょうはお話をしたいと思います。
『百年』史では、この一世紀で日本共産党が果たした、日本と世界の進歩への貢献について太く明らかにするとともに、過去の誤り、歴史的制約、そして自己改革の足跡についても、国民の前に率直に明らかにしています。歴史への貢献と、自己分析性の両面で、百年に及ぶ一貫した党史を持つことができる党は、世界を見渡してもそうはないということがいえるのではないでしょうか。私たちの自己改革の足跡についても、講演のなかで触れていきたいと思います。
みなさん、どうか最後までよろしくお願いいたします。(拍手)
一、戦前の不屈の活動――迫害や弾圧に抗しての、成長と発展のための努力
まず、『百年』史・第一章「日本共産党の創立と戦前の不屈の活動(一九二二~四五年)」についてお話しします。
わが党の戦前の歴史は、党創立のはじめから天皇制権力によるくりかえしの苛烈な迫害と弾圧を受け、これに命がけで抗しながら、自らの成長と発展のための努力を続けていった歴史であり、次の時代を準備する歴史的意義をもつものでした。
『百年』史では、戦前の党史を三つの時期に区分しています。「党創立と初期の活動(一九二二~二七年)」、「"ここに日本共産党あり"の旗を掲げて(一九二七~三五年)」、「次の時代を準備する不屈のたたかい(一九三五~四五年)」であります。戦前史でこうした区分を行ったのは、わが党の党史では今回が初めてですが、そのことによって、弾圧に抗しての不屈の成長のプロセスをくっきりと浮き彫りにすることができたと思います。
党創立と初期の活動(一九二二~二七年)
第一の時期は、「党創立と初期の活動」(一九二二~二七年)であります。創立初期の党活動は、党員グループを中心におこなわれ、国民の多くも党の存在を知りませんでした。
《「綱領草案」――掲げた項目のほとんどは戦後、日本国憲法のもとで実現した》
この時期に、まず党が直面した大きな課題は、綱領を決めることでした。党は、創立の翌年、一九二三年三月の大会で「綱領草案」を検討します。「綱領草案」は、国民の苦しみのおおもとにある天皇絶対の専制政治をやめさせ、国民主権の政治をつくる民主主義革命の旗を掲げ、引き続いて社会主義革命に前進する展望を明らかにしました。
「当面の要求」として、君主制の廃止、十八歳以上の男女普通選挙権、八時間労働制、外国に対する干渉企図の中止、朝鮮・中国・台湾・樺太からの軍隊完全撤退など二十二項目を掲げました。「綱領草案」は審議未了となりましたが、そこで掲げた項目のほとんどは戦後、日本国憲法のもとで実現することになりました。それは創立当初のわが党のたたかいが、どんなに先駆的なものであったかを雄弁に示すものではないでしょうか。
《二三年の弾圧、党再建と本格的な前進、「無産者新聞」の輝かしい歴史》
生まれたばかりの党を弾圧の試練が襲います。一九二三年六月、党は最初の弾圧を受け、執行部を含む約八十人が検挙される大打撃を受けます。さらに同年九月、関東大震災の混乱に乗じて、軍と警察の一部、扇動された自警団などによって多くの朝鮮・中国の人々が虐殺され、軍と警察によって日本共産青年同盟の初代委員長川合義虎など共産党員を含む労働者が殺害されるという事件が引き起こされました。
こうした弾圧とテロに直面して、一部の人々の間で"解党"――党の解散を決める誤りが生まれましたが、党に参加した人々はくじけることなく党を再建し、活動の本格的な前進をはかります。
『百年』史では、党も支持・援助して結成された労働農民党、東京・共同印刷や浜松・日本楽器の長期ストライキなど労働運動の発展、新潟県木崎村の大小作争議などのたたかいが叙述されていますが、私が、この時期の重要な活動として紹介したいのは、党が一九二五年九月、合法的に発行可能な新聞として「無産者新聞」を創刊したことであります。
「無産者新聞」は、二五年から二九年の期間、厳しい検閲と発禁処分を受けながら、平均二万数千部、最大四万部の発行をなしとげ、全国に百数十の支局をもち、民主・平和の世論形成に大きな役割を発揮しました。発禁処分があいつぐなか、差し押さえをかいくぐって読者のもとに配布するためにさまざまな努力が払われました。合法紙として発行するためには、検閲のために新聞を内務省に届け出なければなりませんでしたが、この届け出をできる限り遅らせ、発禁処分が出た時には、すでに配布を終えているというとりくみが行われました。新聞ができしだい、多くの労働者や学生の協力もえて、短時間のうちに発送・配布をやりぬいたのであります。天皇制権力の激しい弾圧に抗して、四万部もの新聞を読者のもとに届けた先人たちの奮闘に、私は、大きな敬意の気持ちを抱かずにはいられません。「無産者新聞」は、二九年に入って、発行する全号が発禁処分とされ、八月、廃刊に追い込まれますが、このとりくみは、党中央機関紙「赤旗」(せっき)――今日の「しんぶん赤旗」の"前史"をなすものとして輝かしい歴史を刻んだことを強調したいと思います。
この時期の党の活動には、一つの大きな弱点がありました。それは、天皇制権力の厳しい弾圧のもとで、どうやって党をつくり、どうやって活動していくのか――党建設と党活動についての方針が明瞭でなく、党建設の意義を否定したり、弱めたりする議論が影響力をもっていたことです。この弱点を克服して、党活動の新たな質的発展を開いたのが次の時期となります。
"ここに日本共産党あり"の旗を掲げて(一九二七~三五年)
『百年』史では、戦前の第二の時期に、「"ここに日本共産党あり"の旗を掲げて(一九二七~三五年)」という見出しをつけました。
《「二七年テーゼ」、「赤旗」の発刊、二八年二月の総選挙のたたかい》
一九二七年七月、モスクワに派遣されていた党代表は、国際組織「共産主義インタナショナル」(コミンテルン)との協議によって、「日本問題にかんする決議」――「二七年テーゼ」をつくります。「二七年テーゼ」は、君主制の廃止などを主な内容とする民主主義革命から社会主義革命への発展を展望する戦略論をより立ち入って明らかにするとともに、「大衆的共産党」を建設するという方針を打ち出したことに重要な特徴がありました。
党が国民の目から隠されていたそれまでの状態を抜け出して、「権力の前には非公然だが、国民の前には"ここに日本共産党あり"という旗を公然と掲げて活動する」という方向に、党活動の大転換をはかっていったのです。
一九二八年二月一日、この方針のもとに開始されたのが、非合法の党中央機関紙「赤旗」の発刊であり、それは、今日の「しんぶん赤旗」にいたる誇るべき歴史を刻んでいくことになります。
『百年』史は、党の本格的な建設にふみだした日本共産党が直面した全国的闘争――一九二八年二月に行われた普通選挙法による最初の総選挙について叙述しています。普通選挙制といっても、選挙権は男性にしか与えられていません。議会は立法権を持たず天皇を「協賛」するだけのものでした。しかし、党はこのとりくみを重視し、十一人の党員を労農党から立候補させ、党の独自の政策も発表し、「赤旗」と党名入りのビラ、リーフレットを発行して、党の政策を訴える活動を展開しました。
当時、銀行員で入党前だった作家・小林多喜二は、北海道一区から立候補した党員の山本懸蔵を応援しています。多喜二は、その熱気あふれる情景を『東倶知安行』と題する小説でつぎのように生き生きと残しています。
「(小樽)市内では、毎晩同時に三カ所位ずつ、島田正策(山本懸蔵のこと――引用者)の政見発表演説会を開いた。それには組合や党の幹部が皆出た。今迄(いままで)ブルジョアやその鼻息をうかがう陣笠連の上品な、型通りの演説ばかりに慣れ切っていた一般民衆は、この粗野な、図太い、グンと迫る――すべてが正反対の絶叫をきいて、吃驚(びっくり)した。それが、不思議にどの他の演説会よりも人気を呼んで、殆(ほとん)ど満員ばかりだった」
初めて選挙活動に参加した青年・多喜二のあふれるような感動が伝わってくる作品です。
労農党は、十九万票を獲得し、京都二区の山本宣治ら二人の当選者を出しました。驚くのは、こうした活動とともに、日本共産党が、党員数を百数十人から一挙に四百人を超えるところまで増やしたことであります。選挙のなかで党建設を行うことは、いまでもなかなか難しい課題ですが、先人たちは弾圧下でこのとりくみを勇敢になしとげていったのであります。
《二八年、二九年の大弾圧、党中央の再建と侵略戦争反対のたたかい》
天皇制権力は、選挙をつうじて国民の前に公然と姿をあらわしてきた日本共産党の前進に驚き、強い恐怖を抱きます。
彼らは、治安維持法をふるって、二度にわたる大弾圧を強行しました。千六百人におよぶ党員と党支持者を検挙した一九二八年三月十五日の大弾圧と、約千人の党員と党支持者を検挙した一九二九年四月十六日とそれに引き続く大弾圧であります。特高警察によって、警察の留置場で手段を選ばない拷問が行われました。二回の大弾圧によって市川正一をはじめ党の主だった幹部は、ほとんど検挙されました。それは根こそぎに近い大打撃でした。
弾圧を受けて、党の一部には弾圧に屈する部分も出てきます。ごく一時期、冒険主義的な誤りも生まれました。しかし、大弾圧は党をつぶすことはできませんでした。一九三一年一月、党は、党中央を再建し、新しい党指導部のもとで、活動を大きく発展させました。「赤旗」も再刊されただけでなく活版化を実現します。
そうした党がただちに直面したのが侵略戦争に反対するたたかいでした。一九三一年九月、天皇制政府によって引き起こされた中国侵略戦争にさいして、党は、戦争開始の二カ月以上前から、侵略戦争に警鐘を鳴らすとともに、戦争開始の翌日、ただちに檄(げき)を発表し、「帝国主義戦争反対、中国から手を引け」と訴えてたたかいました。
党は、民主的諸団体と連携して、さまざまな形で戦争反対の運動にとりくみました。三二年には「もぐら争議」といわれた東京・地下鉄のストライキがたたかわれ、「出征中は給料を全額支給しろ」など二十七項目の要求を突きつけ、二十一項目について成果をあげる勝利のストライキとなりました。軍部も否定できないような要求を掲げながら、反戦の意思を示していくという、実に勇敢で創意的なたたかいを行ったのです。
日本が重大な歴史的岐路にあるもとで、日本共産党以外のすべての政党と全国新聞が、侵略戦争を積極的に支持するもとで、党と「赤旗」が命がけで侵略戦争反対の旗を掲げ続けたことは、私たちの大きな誇りであります。(拍手)
《「三二年テーゼ」、コミンテルンと日本共産党の関係について》
侵略戦争開始のもとで、日本の情勢と革命の展望をより明確に明らかにすることが切実な課題となりました。コミンテルンで党代表も参加して、日本問題の検討が行われ、三二年五月、「日本における情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」――「三二年テーゼ」がつくられました。「三二年テーゼ」は、天皇絶対の専制政治――絶対主義的天皇制を深く分析し、当面の革命の性格を民主主義革命としました。日本の情勢の具体的な分析にもとづいて、専制政治の打破と民主的変革を訴えた「三二年テーゼ」は、その後の党活動の発展を支える最も重要な指針となりました。
ここでコミンテルンと日本共産党の関係について、のべておきたいと思います。『百年』史では、その中心点を明らかにしています。
第一に、「二七年テーゼ」「三二年テーゼ」のころまでは、コミンテルンが政治上、組織上の誤りや弱点をもちながらも、全体としては、まだ国際組織としての健全さをもっていたこと、第二に、二つの「テーゼ」は、日本の党代表も参加し討議して決めたものであり、どちらの場合にも、「テーゼ」が出る前に、野呂栄太郎など日本の若い理論家たちが日本の社会を自分たちで分析し、「テーゼ」に先立ってほぼ同じ結論を出していたことが、重要な点であります。
天皇制権力は、日本共産党を「コミンテルンの手先」と攻撃し、同じ立場からの攻撃は戦後も続いていますが、これは日本共産党が行った主体的な探究を無視した、不当な一面的論断といわなければなりません。
《二度の大弾圧をへた三〇年代初頭の時期に、日本共産党の影響力は戦前で最大に》
私が、ここで強調したいのは、二度の大弾圧をへた一九三〇年代初頭の時期に、日本共産党の政治的・社会的影響力は戦前で最大のものとなったという事実であります。
「赤旗」は、三二年四月から活版印刷となり、発行部数は七千部にのぼり、"回し読み"され、実際にははるかに多くの読者を得ていました。党は、東京、大阪の陸軍連隊、横須賀、呉の軍港、戦艦長門、榛名、山城など軍艦のなかにも党組織をつくり、軍のなかからも勇敢に反戦平和の声をあげました。
三二年五月から三三年八月にかけて、野呂栄太郎の指導のもとに党内外の若いマルクス主義理論家が参加して岩波書店から『日本資本主義発達史講座』が刊行されましたが、その内容は、国際的に見てもきわめて高い水準にあり、今日から見ても歴史学と経済学における科学的な金字塔というべき偉業であります。小林多喜二や宮本百合子に代表される「プロレタリア文学」――進歩的な芸術・文化運動は、社会的に大きな影響力を広げました。
天皇制権力の繰り返しの弾圧も、日本共産党をつぶすことはできず、反対に、党は、この時期に、弾圧に抗して驚くべき成長と発展を記録しました。みなさん。先人たちのこの不屈の奮闘は、今を生きる私たちを励ましてやまないものがあるのではないでしょうか。(拍手)
《日本共産党に参加した女性たちの不屈の青春――飯島喜美のたたかいにふれて》
『百年』史では、この時代に、日本共産党に参加した女性たちの不屈の青春について、新たに一項を起こして叙述し、飯島喜美、高島満兎、田中サガヨ、伊藤千代子――いずれも二十四歳の若さで弾圧にたおれた四人の女性党員のたたかいについて明らかにしています。それぞれが深く心をうつものですが、きょうは、飯島喜美について話したいと思います。
飯島喜美は、貧しい家に生まれ、他人の家で女中奉公の苦労をし、『女工哀史』の舞台としても有名な東京モスリン亀戸工場に就職します。工場では、女性労働者への苛酷な搾取と収奪に対して、繰り返しストライキが起こりますが、飯島喜美はこのたたかいに参加し、十六歳でそのリーダーとなり、ストライキを勝利に導きます。
一九二九年四月十六日の大弾圧の直後、喜美は日本共産党に入党し、一九三〇年五月にモスクワで開かれた国際的な労働組合組織の大会に、日本代表団の一人として参加し、日本の女性労働者が置かれた劣悪な状態と、たたかいの発展方向を堂々と演説し、国際的注目を集めました。
一九三一年十月に帰国後、飯島喜美は、日本共産党中央婦人部の任務につきますが、ここでの喜美の働きは素晴らしいものがありました。
彼女が中央婦人部で働いていた三二年五月に、『勤労婦人間の活動に於ける吾党当面の方針』――女性労働者のなかでどうやって活動していくかという方針が作成されます。『百年』史は、この方針書の重要な意義について党史としては初めて言及していますが、今読んでも実に全面的で堂々たる内容であります。方針書は、女性労働者の置かれている状態が「植民地的に劣悪」であり、差別的であることを詳細に告発し、にもかかわらず党の過去の活動が、工場や職場を基礎として女性労働者の組織化をはかるうえで「甚だしく消極的」であったことを厳しく批判し、女性労働者のなかでの活動の抜本的強化方向を明らかにしています。この方針書の中では、「赤旗」などの紙面で女性の問題をもっととりあげていくことも明記されました。
その後、「赤旗」の記事に大きな変化が表れました。「赤旗」三二年七月十五日付には、「婦人欄」が付録としてつけられ、まるまる一ページを使っての「婦人大特集」になっています。「戦争が広がる 婦人は起(た)って反対せねばならぬ」というたたかいが呼びかけられ、女性が各分野で置かれている差別的で劣悪な状態を告発しながら、たたかいを呼びかけています。これらの中央婦人部の奮闘が、『女工哀史』の舞台となった工場が生んだ女性革命家・飯島喜美によって支えられていたことは、間違いないことだと思います。
飯島喜美は、特高警察によって、一九三三年五月に検挙され、残虐な拷問・侮辱に耐え、不屈にたたかって、三五年十二月、栃木刑務所でひっそりと息絶えました。二十四歳の誕生日を迎えた翌日でした。
私が、彼女の最後についての出来事で、とりわけ深い憤りを覚えずにはいられないのは、刑務所のとった冷酷な仕打ちであります。刑務所は、喜美が危篤におちいるとすぐに、死亡のさいには研究材料として千葉医科大学に送っても異存はないかという手紙を、喜美の父親あてに出しています。喜美は、父親について、おりにふれて「お父さんは私を理解して、はげましてくれている」と語っていたといいます。そうした父親に対して、まともな治療もせず、まだ生きているうちから、"お前の娘を学術研究用に解剖する"という通知を平気で出す。何と非道なことでしょうか。喜美の遺品となったコンパクトには、「闘争・死」という文字が刻みこまれていました。命がけでたたかい抜くという決意を込めたものだと思います。
戦前のわが党のたたかいに対して、「日本共産党は女性を踏み台にした非人間的な党」という批判・攻撃が、繰り返し行われてきました。『百年』史は、そうした論難が、事実に全く反するものだったことを明らかにし、次のようにキッパリと反論しています。
「もしも、そのような党だったら、どうして多くの若い女性たちが、困難を恐れず、党の一員となり、『くじけない志』をもって頑張りぬくことができたでしょうか」
これが私たちの反論であります。
四人の女性革命家は、亡くなるときに、党の『百年』史にその名が刻まれることになることを、もちろん予想しなかったでしょう。しかし、私たちは、無数の先人たちの開拓と苦闘のうえに今日の日本共産党があることを、決して忘れてはならないし、決して忘れません。侵略戦争に命がけで反対を貫き、国民主権の日本を求め続けた理性のたたかいは、ひとり日本共産党にとっての誇りある歴史というだけでなく、人間社会の進歩と発展を願うすべての人々にとって、大きな誇りになりうるものではないでしょうか。(拍手)
次の時代を準備する不屈のたたかい(一九三五~四五年)
戦前の第三の時期の党のたたかいを、『百年』史では「次の時代を準備する不屈のたたかい(一九三五~四五年)」と特徴づけました。
《残虐さを増した弾圧――党のたたかいは不屈に続けられた》
一九三二年~三三年、天皇制権力による弾圧は残虐さを増し、上田茂樹、岩田義道、西田信春、小林多喜二が特高警察によって虐殺され、あるいは闇から闇に葬られました。野呂栄太郎は検挙され、拷問による健康悪化で、三四年二月、死去しました。三五年三月、党中央の組織的活動は中断に追い込まれました。
しかし、党のたたかいは不屈に続けられました。各地での活動が続けられ、海外での反戦平和の活動が続けられ、獄中と法廷でのたたかいが続けられました。『百年』史は、この時期に続けられたたたかいを具体的に叙述し、その全体を、「戦後の新しい時代を準備する営み」と意義づけています。
《宮本顕治・宮本百合子の「十二年」と、敗戦直後の『歌声よ、おこれ』の呼びかけ》
その一つとして、『百年』史では、宮本顕治と宮本百合子夫妻の十二年におよぶたたかいを詳細に叙述しています。宮本夫妻の「十二年」については、昨年の党創立記念講演で詳しくお話しする機会がありました。昨年の講演では、二〇〇七年、宮本顕治さんが亡くなったさいに、「九条の会」の呼びかけ人の一人で評論家の加藤周一さんが、「宮本さんは反戦によって日本人の名誉を救った」との弔意を寄せてくれたことを紹介しました。きょうお話ししたいのは、加藤さんのこの言葉が、次のような文脈で語られていたということです。
「戦後すぐの時期に、宮本顕治さんと雑誌で対談したときの印象はいまでも鮮明に思い出す。宮本百合子が『歌声よ、おこれ』を書いた解放感が社会にみなぎっていた。顕治さんはその渦中の人であり、獄中で非転向を貫いた十二年があったから、ほかの人をはるかに超える解放感を感じたに違いない。......私の世代はよく知っているが、宮本夫妻の戦時下の往復書簡『十二年の手紙』は、日本のファシズムに対する抵抗の歌である。窒息しそうな空気の中で最後まで知性と人間性を守った記録である。
歴史的記念碑ともいうべき宮本顕治さんの偉大さは十五年戦争に反対を貫いたことである。それができた人は、日本では例外中の例外だった。宮本顕治と百合子はあの時代にはっきりした反戦を表明し、そのために激しい弾圧を受けた。その経験なしには『歌声よ、おこれ』の解放感は生まれなかったろう。......宮本顕治さんは反戦によって日本人の名誉を救った。戦争が終わり世界中が喜んでいるのに日本人だけが茫然(ぼうぜん)自失状態だった時に、宮本さんは世界の知識層と同じように反応することができた」
宮本百合子が、日本軍国主義の敗戦直後の一九四六年一月、加藤さんの言葉を借りれば「茫然自失状態」だった日本の文学者や国民に向かって、「歌声よ、おこれ」と呼びかけた一文は、多くの人々に強烈なインパクトを持って受け止められました。百合子が、こういう呼びかけを発することができたのは、顕治との精神的交流のなかで、「窒息しそうな空気の中で最後まで知性と人間性を守った」からであり、日本軍国主義の敗戦を、成熟と成長のなかで確かな備えをもって迎えることができたからにほかなりません。
一九三五年~四五年という最も困難な時代にも、日本共産党の旗は毅然(きぜん)として守られ、成長への努力は続けられました。次の時代を準備する不屈のたたかいが続けられたからこそ、戦後の日本国憲法に明記された国民主権と恒久平和主義は、外国からの借り物でなく、日本国民が生み出したものだと、私たちは胸を張って言えるということを、私は、先人たちの苦闘への深い敬意をこめて強調したいと思います。(拍手)
二、戦後の十数年――「大きな悲劇を未来への光ある序曲に転じ」た開拓と苦闘
『百年』史・第二章「戦後の十数年と日本共産党(一九四五~六一年)」に進みます。この章の特徴は、日本軍国主義の敗北によって、党が合法政党として新たな奮闘を開始した一九四五年から、綱領路線を確立した一九六一年までを、一つの章にまとめたことにあります。そうすることで、この時期の"波瀾(はらん)万丈"とも呼ぶべき「たたかいの弁証法」がくっきりと浮き彫りになると考えました。
一九五〇年、日本共産党は、党の不幸な分裂という、党史上最大の危機におちいります。今日、私たちはこの問題を「五〇年問題」と呼んでいますが、当時、分裂を克服して統一を実現するたたかいの先頭にたった宮本顕治さんは、後年、この問題を、「日本共産党史上、最大の悲劇的な大事件だった」とのべるとともに、「この大きな悲劇を未来への光ある序曲に転じることこそ、私たちの新しい生きがいだった」と語っています。私たちの先人たちは、いかにして党史上最大の悲劇を「未来への光ある序曲」に変えていったか。そのことに焦点をあてて話したいと思います。
敗戦後、党が果たした積極的役割と弱点について
《日本国憲法に「国民主権」を明記し、「日本の完全な独立」の旗を敢然と掲げる》
敗戦直後の日本は、アメリカを主力とする連合国軍の占領下に置かれます。この時期、党は、二つの大きな政治問題に直面します。
第一は、新憲法で日本の政治体制をどうするか――とくに国の主権者をどう規定づけるかという問題でした。
当初、日本政府も、他の政党も、戦前と同じ天皇主権を、公然と、あるいは折衷的な形で認めた憲法改正案を提起します。その後、占領軍と日本政府が協議して、憲法制定議会に出してきた憲法改正案も、肝心の国民主権の規定が欠落したものでした。
こうしたもとで憲法に国民主権を明記することを、一貫して要求し続けたのは政党では日本共産党だけでありました。党のこの先駆的奮闘は、連合国の対日政策の最高機関である極東委員会の動きともあいまって、日本国憲法に「国民主権」を明記するという歴史的な成果につながりました。
第二は、占領支配に対する態度の問題でした。
米占領軍は、占領の初期は一連の民主化政策を実行しますが、一九四七年初頭から占領政策の反動的な転換が起こります。その時期に、社会党と保守政党との連立内閣がつくられ、日本共産党以外のすべての政党が占領政策の「与党」になるという「オール与党」の政治が生まれました。
米占領下で、占領政策と正面からたたかい、「日本の完全な独立」の旗を敢然と掲げた唯一の党が日本共産党だったことも、特筆すべき歴史的事実であります。
こうした「オール与党」政治の矛盾が噴き出したのが、一九四九年一月の総選挙でした。社会党が激減するなかで、日本共産党は三十五議席へと大躍進をとげます。四九年七月、統一戦線組織――民主主義擁護同盟が結成され、構成員が最大規模――千百万人にのぼったことも、画期的な出来事でした。
《占領軍による日本共産党撃滅作戦と、当時の党が抱えていた弱点》
日本共産党の躍進は一大逆流を呼び起こしました。
日本共産党が、自分たちの対日政策の最大の障害になると恐れた占領軍は、一九四九年、総がかりで日本共産党撃滅作戦にとりかかります。攻撃の矛先は、まず階級的な労働組合運動をつぶすことに向けられ、国鉄と全逓で大量首切りが強行されました。松川事件などの謀略事件が引き起こされ、占領軍と日本政府は、党と労働組合が引き起こしたかのように大宣伝して党員と労働組合員を逮捕しました。
こうした日本共産党撃滅作戦をいかにして打ち破り、いかにして日本の真の独立をかちとるか。このことが当時の党の大きな課題でした。
ところが当時の党は大きな弱点を抱えていました。
一つは、戦後の新しい情勢のもとでの、革命の明確な戦略方針を持てなかったことです。とくに、日本がアメリカの占領下に置かれたという新しい大問題が生まれたのに、それを革命の戦略問題としてとらえられないという弱点がありました。
もう一つは、当時の党組織の問題であります。戦前の弾圧によって多くのすぐれた幹部を失ったことともあいまって、当時の党の指導体制には欠陥がありました。徳田球一書記長のもと、党内民主主義と集団指導がおろそかにされ、のちに「家父長制」と呼ばれた、粗野で個人中心の指導、批判を抑圧する専断的傾向、自らの腹心による派閥主義が横行していました。
こうした党の弱点が噴き出したのが一九五〇年でした。
スターリンによる無法な干渉と「五〇年問題」
《マッカーサーの弾圧を利用し、党の分裂を強行する一大暴挙が行われた》
一九五〇年、わが党の前進をより深刻な形で脅かす相手が、当時の党にとっては思いもかけないところから現れました。スターリンが支配するソ連による謀略的な干渉であります。干渉は、スターリンが自由自在にあやつっていたコミンフォルムの名で、五〇年一月、五一年八月の二度にわたって行われました。武装闘争路線を日本の運動におしつけることがその目的でした。
占領軍とマッカーサーは、スターリンによる干渉も利用して、一九五〇年六月六日、日本共産党に対し「民主主義的傾向を破壊」などのレッテルをはりつけ、事実上の非合法状態に置く指令を出しました。
ところが、この弾圧と正面からたたかうべき瞬間に、徳田球一と野坂参三らは、弾圧を逆に利用して、中央委員会を解体し、党組織の全国的分裂を強行するという一大暴挙を行いました。まもなく中国・北京に亡命した徳田・野坂分派から、武装闘争の方針が流し込まれました。一九五一年、スターリンは分派の幹部をモスクワに呼びよせ、自ら筆を入れた「日本共産党の当面の要求――あたらしい綱領」なる文書――これは党の正規の「綱領」と呼べるものでなく今日では「五一年文書」と呼んでいます――をつくり、徳田・野坂らは、この文書を受けて分派の会議を開き、武装闘争をもちこむ「方針」を確認しました。
干渉によって、党の受けた打撃は甚大でした。四九年に三十五人をかぞえた党の衆議院議員は、五二年の総選挙ではゼロに落ち込みました。
《スターリンの干渉の真の狙いはどこにあったか――『百年』史の新しい記述》
それでは、スターリンの干渉の真の狙いはどこにあったか。『百年』史は、不破哲三さんの研究『スターリン秘史』をふまえて、次のような新しい記述を行っています。
「当時、スターリンは、東ヨーロッパ諸国への支配を安定させるために、アメリカをアジアでおこす戦争に引きだし、ヨーロッパでの直接的な軍事対決をさけようとしていました。その戦略の具体化が、北朝鮮による武力『南進』でした。......スターリンは、アジアで戦端がひらかれれば日本が米軍の後方基地になると考え、党と運動をかれの支配下におこうとはかりました」
東ヨーロッパ諸国への覇権主義的支配を安定させるために、アメリカをアジアで起こす戦争に引きだす、そのために朝鮮戦争を引き起こし、日本の運動に対しては武装闘争をおしつけて後方でのかく乱・妨害活動にあたらせる――これがスターリンの干渉の目的だったのです。東ヨーロッパでの自分の「勢力圏」の確保のためには、他国の党や運動がどんな被害をうけてもかまわないというスターリンの恐るべき覇権主義が、無法な干渉の根本にあったのであります。
「六全協」から第七回大会、第八回大会まで――苦闘をへてつかんだ未来ある路線
《惨たんたる現実から出発して未来ある進路を見つけだす、文字通りの開拓の時期》
党の分裂と武装闘争のおしつけに反対してたたかった宮本顕治さんは、後年、一九五一年八月のコミンフォルムの二度目の干渉のさいに、「不当な干渉」への「批判と憤懣(ふんまん)」を強く感じたと語っています。
宮本さんのこの認識が全党の認識になるまでには、その後、六年の歳月を要しました。さらに党が綱領路線を確立するためには、十年の歳月を要しました。この時期は、惨たんたる現実から出発して未来ある進路を見つけ出す、文字通りの開拓の時期となりました。
一九五五年七月、「第六回全国協議会」(「六全協」)と呼ばれた会議が開かれます。これは党を分裂させた側が外国の党との相談のうえで準備した不正常な会議でした。「五一年文書」を「完全に正しい」としたことも大きな問題でした。同時に、宮本顕治さんなど第六回大会選出の中央委員も参加してひらかれた会議として、党の統一の回復と「五〇年問題」の解決にいたる過程で、過渡的な意義をもつものでした。「極左冒険主義」――武装闘争の路線や派閥的な党指導の誤りが指摘されたことも、前向きの一歩でした。
《「党史上のきわめて重要な時期」――危機と混沌から未来ある路線が》
『百年』史は、「六全協」から、一九五八年七~八月の第七回大会にむかう時期を、「党史上のきわめて重要な時期」と位置づけ、立ち入った叙述を行っています。
不破哲三さんの回想によれば、「六全協」でそれまで「方針」とされてきたことの誤りが指摘されたことは、多くの党員にとって絶大な衝撃だったといいます。多少おかしいと感じても、歯をくいしばって頑張ってきた党員がたくさんいた。ところが、それが根本的な誤りだった。しかも党の指導部を名乗っていたものが、正規の党中央でなく、分派にすぎなかった。こういう真実がわかってくるもとで、さまざまな混乱、混迷が起きたといいます。どこで間違えたのか、どういう道を歩むべきか、その全体の解明ぬきに心からの団結はつくれません。そのための真剣な議論が続きました。「六全協」から第七回党大会に向かう時期は、危機と混沌(こんとん)ともいうべき状態から、未来ある新しい路線が立ち現れてきた時期となったのであります。
まずとりくまれたのが「五〇年問題」の総括でした。五六年一月、第四回中央委員会総会(「六全協」)は、「党の統一と団結のための歴史上の教訓として」という文書を採択します。この決定は、五〇年の党の分裂の問題を、「事実問題として、また理論問題として正しく詳細に分析するには、なお十分な研究と相当な時日が必要である」としつつ、総括の出発点となる事柄を指摘しました。
続いて、同時並行的に開始されたのが、綱領路線の確立に向けた議論でした。五六年六月、第七回中央委員会総会は、「独立、民主主義のための解放闘争途上の若干の問題について」という文書を採択し、日本をふくむ一連の国ぐにでは、「議会を通じて、平和的に革命を行うことが可能となった」と明記するとともに、分派による武装闘争方針の土台となった文書――「五一年文書」を日本の現状に「適合しない」ときっぱり否定し、綱領改定の全党討論の必要性を認めました。こうして、この決議の採択を契機として、綱領討議が正式に始まりました。私は、昨年の記念講演で、「武装闘争方針の否定こそが六一年綱領を確立する出発点だった」とのべましたが、この事実を重ねて強調しておきたいと思います。今日の綱領は、武装闘争方針が間違っていると、ここから出発したわけでありますから、公安調査庁が何十年にわたって不当な調査をいくらやっても、「暴力革命の証拠」などというのは、どこをさがしてもみつからないことは、はなから明らかではないでしょうか。(拍手)
こうして「五〇年問題」の総括と、綱領路線の確立に向けた努力が、同時並行で、粘り強くとりくまれました。
その成果は、一九五七年秋に相次いで明らかにされました。五七年九月に開かれた第十四回拡大中央委員会総会は、「日本共産党党章」――綱領と規約を一つの文書にまとめた文書の「草案」を発表しました。
直後の五七年十月に開かれた第十五回拡大中央委員会総会は、総括文書「五〇年問題について」を全員一致で採択しました。総括文書が、コミンフォルムの干渉への批判を明記したことは、とりわけ重要な意義をもつものでした。二年に及ぶ議論の結論として、総括文書が全員一致で採択されたことは驚くべきことです。『百年』史は次のようにのべています。
「総括文書が、全員一致で採択されたことは、『五〇年問題』の苦難をへて、自主独立の立場が、一部のものにかぎられたものでないことをしめしました。それがどれだけ自覚的につかまれたかは、個々に相違はありました。しかし、党の問題に他国の干渉はゆるさないという立場、相手がいかなる大国の党であれ、干渉の誤りを堂々と指摘する立場は、統一を回復した日本共産党の、くつがえすわけにはゆかない立場となったのでした」
《六一年綱領確立へ――徹底した民主的討論、歴史的闘争、党勢倍加をへて》
こうして「五〇年問題」の総括はやりとげたわけですが、綱領路線の確立のための全党討論はそれからが本番でした。
党は、特別の討論誌『団結と前進』を一九五七年十月から五八年七月まで五回発行し、「草案」の全党討議を進めていきました。『団結と前進』には、「草案」をめぐって六十二の論文が掲載されましたが、基本的に賛成が二十四、基本的に反対が二十九、修正意見八、賛否不明一と、反対意見にも十分に発言の機会が保障されました。実際には賛成意見が多数だったのですが、反対意見が多数掲載されたのです。
一九五八年七~八月に開催された第七回大会は、大会として「五〇年問題」の総括を行い、党の統一と団結を正式に回復しました。自主独立――相手がどんな大国でも言いなりにならず日本の進路は自分で決めるという路線が、全党の意思として確立したのであります。「党章(草案)」の綱領部分は、大会で長時間討論され、代議員の多数は「草案」に賛成でしたが、反対意見も出されるもとで、大会は綱領を多数決で決めず、引き続き討議することになりました。
党大会の決定にもとづいて五八年八月、中央に綱領問題小委員会が設置されました。この委員会は、一九六一年の第八回大会までに実に二十九回開かれています。発言は徹底的に保障され、足かけ四年半、論点は出しつくされ、掘り下げつくされました。
この時期、党は、多くの民主団体とともに、日米安保条約改定反対の大闘争、三池闘争という二つの歴史的闘争にとりくみました。また、五九年八月に開かれた中央委員会総会で党勢倍加運動を提唱し、「党を拡大強化するために全党の同志におくる手紙」をおくり、翌年六月末には九割の支部から「返事」がよせられ、二年におよぶ大奮闘で、党勢倍加を全党の力でなしとげていきました。
こうした努力は巨大な実を結びました。一九六一年七月に開催された第八回大会で、ついに綱領は全員一致で採択されました。こうして党は、国民多数の合意で異常な「アメリカ言いなり」「財界中心」の政治を根本からただす民主主義革命を行い、さらに国民多数の合意で社会主義にすすむという大方針をうちたてたのであります。
スターリンによる干渉の全貌が明らかになるのはソ連崩壊後のことでした。当時の限られた条件のもとで、徹底した民主的討論を通じて、「五〇年問題」という党史上最大の悲劇の真相を突き止め、それを「未来への光ある序曲」に転じ、自主独立と綱領路線を打ち立てるという大事業を成し遂げた先人たちの勇気と理性に、私は、心からの敬意の気持ちをささげたいと思うのであります。(拍手)
そして、この試練をへて、党の統一と団結をまもることがいかに大切か、その党の生死にかかわる重要性が明らかになり、集団的指導を重視し、党内民主主義を大切にするとともに、党規約をやぶる分派主義・派閥主義を許さない――民主集中制の原則が全党の血肉となったことも、今日に生かすべききわめて重要な教訓であることを強調したいと思うのであります。(拍手)
三、綱領路線の確立以後(一)――一九六〇~七〇年代
『百年』史・第三章「綱領路線の確立以後(一)――一九六〇~七〇年代」に進みます。
日本の政治史は、日本共産党が六一年綱領を確定した一九六〇年代以降、アメリカ従属、財界・大企業中心の自民党政治と、「国民が主人公」の民主主義日本をめざす日本共産党の二つの流れの対決を軸に展開してきました。
正確な綱領路線を確立すれば、一路前進というわけにはいきません。
六一年綱領確定後の六十年余に、日本共産党は三回にわたって国政選挙での躍進を記録していますが、そのたびに支配勢力は集中的な反共攻撃と政界の反動的再編でこたえ、それとのたたかいで党は鍛えられ、成長していく――「政治対決の弁証法」というべき曲折にとんだたたかいとなりました。
綱領路線にもとづく各分野での開拓的な努力
《革新勢力の共同行動と革新都政の誕生、政策活動と住民運動の発展》
『百年』史は、一九六〇年代、党が綱領路線にもとづいて各分野で開拓的な努力を開始したことを叙述しています。
党は、安保闘争の経験を重視し、革新勢力の共同行動と統一戦線の発展に力をそそぎました。六七年に、社会党と東京都知事選の「政策協定」「組織協定」を結び、「明るい革新都政をつくる会」の活動を広げ、革新統一候補の勝利をかちとったことは、革新自治体を全国に広げる大きな契機ともなりました。
党は、この時期に、政策活動の発展をかちとりました。政策とは、国民の切実な要求から出発して党としての解決策を示すものであり、国民の要求と綱領を媒介するものだと定式化し、今日に生きる政策活動の豊かな発展の土台を築きました。それは老人医療無料化、公害反対などの住民運動の力ともなり、多くの成果をあげました。国際法の道理にたった外交政策の発展を探求し、安保条約第十条にもとづく安保廃棄の道を明らかにし、千島問題を抜本的に解決するための政策提起などを、行っていきました。
《ソ連核実験に対する対応の誤りと、「核抑止力」論批判に至る過程を明らかに》
『百年』史は、核兵器問題にかかわる当時の党の対応の誤りと、それを是正し、先駆的立場を確立していった歴史についても新たに明記しています。
戦後、党は、核戦争阻止、核兵器全面禁止・廃絶、被爆者の援護・連帯を、核兵器問題に対する基本姿勢として一貫して堅持して奮闘してきました。
同時に、党が、一九六一年、ソ連が再開した核実験を、アメリカの核脅迫に対抗して余儀なくされた防衛的なものとみなす態度表明を行ったことについて、『百年』史は、「党として、核兵器使用の脅迫によって国の安全を確保するという『核抑止力』論にたいする批判的認識が明瞭でなく、ソ連覇権主義にたいする全面的な批判的認識を確立していないもとでの誤った見方」だったとの反省を表明しています。
さらに、党は、一九七三年、この見方をあらため、アメリカを戦後の核軍拡競争の起動力として厳しく批判するとともに、ソ連や中国の核実験も際限のない核兵器開発競争の悪循環の一部にならざるをえないものとなっているという評価を明確にしましたが、『百年』史では、「七三年の態度表明には、六〇年代に党がとったソ連や中国の核実験にたいする態度は『誤っていなかった』とする限界」があったことも表明しました。
それでは党はいつこの限界をのりこえ、「核抑止力」論に対する明確な批判的立場を確立したのか。これが重要な問題となってきます。『百年』史では、一九八一年に党が発表した論文「真の平和綱領のために」のなかで、「核抑止力」論を「もっとも危険な集団的誤謬(ごびゅう)」ときびしく批判した国連事務総長の報告に「全面的に同意する」とのべていることを強調しています。
今日、日本共産党は、「核抑止力」論に対する、最もきびしい批判者となっていますが、私は『百年』史が、この立場の確立にいたる過程を自己分析的に明らかにしたことは、核兵器廃絶を求める運動の団結と発展にとって意義あるものと考えるものです。
二つの覇権主義による干渉――「打ち破っただけでなく、より強くなって現れた」
《イタリア有力紙の記者時代に各国共産党を担当したジャーナリストの評価》
六一年綱領のもとで党が政治革新のたたかいにとりくんでいるさなかの一九六四年、ソ連から、「ソ連の外交政策に追随せよ」との激しい干渉が開始されます。スターリンはもう死んでいましたが、その後継者に覇権主義のDNAがしっかりと継承されていたのです。つづいて、一九六六年、中国・毛沢東派から、「武装闘争の方針をとれ」との激しい干渉が開始されます。
この干渉の動機は、五〇年代の干渉とは異なるものでした。五〇年代の干渉の動機というのは、スターリンの覇権主義的な目的に日本の党と運動を利用するというものでした。六〇年代の干渉というのは、動機がちがうんです。すなわち「自主独立」の立場を確立した日本共産党の存在を恐れ、つぶしたい――ここに干渉者たちの動機がありました。それだけに、二つの干渉は、そのどちらもが国の総力をあげ、日本にニセの「共産党」をつくり、日本共産党を転覆させようという一大干渉作戦となりましたが、党は、二つの覇権主義の攻撃と正面からたたかい、それを打ち破っていきました。
先日、イタリアの有力紙の記者時代に各国の共産党を担当したジャーナリスト、エンニョ・アマート氏が、旧知の緒方靖夫副委員長に、『日本共産党の百年』史にかかわって、次のような評価を伝えてきてくれました。紹介したいと思います。
「長い間、各国の共産党、共産主義運動を見てきた経験の中で、日本共産党についてまず思うのは、当時の共産党の"慣習"に反して、ソ連、中国の二つともに、誤りを誤りとする信念で対応した稀有(けう)な共産党だということです。
この二つの大国の共産党は、自分に盾突く面倒な党は打倒して、"操り人形"の党をつくろうとしました。ソ連共産党は、日本に対して『できる』と踏んで、ヨーロッパのいくつかの党には事前に内密に、"間もなく日本に新生共産党"――ソ連言いなりの"操り人形"の党(引用者)――が誕生すると通知しました。
しかし、日本共産党は、クリアな理論、立ち向かう気概、財政力を含め強い党勢で、これを打ち破っただけでなく、より強くなって現れ、日本国民の党であることを示しました。二つの大国の共産党からの攻撃を同時に相次いで受けた党も、打ち破った党も、世界に存在しません。ソ連はつぶれたので今後も目にすることはありません。
当時、自分にはヨーロッパ中心の偏見があり、正直、必ずしも理解していませんでしたが、時を経た今日、日本共産党は最も複雑で困難な時代にあって強力な独立心を持つ党として、世界の運動に見事な一ページを刻んだと思います」(拍手)
こういう評価を寄せてくださいました。
《無法な干渉とたたかい、自らを鍛え、成長させていった「たたかいの弁証法」》
アマート氏が寄せてくれた評価は、たいへんうれしく、全体としてきわめて的確なものですが、彼が、日本共産党が干渉を「打ち破っただけでなく、より強くなって現れた」とのべていることは、事の本質を深くとらえたものであります。二つの覇権主義との闘争をつうじて日本共産党が、鍛えられ、より強くなったことを、私は強調したいと思います。
第一に、自主独立の立場が、文字通り全党の血肉となりました。全党の同志たちが、二つの覇権主義を根底から批判した党中央の一連の長大な論文を必死で学び、討論し、草の根から干渉攻撃を打ち破るたたかいにたちあがりました。
第二に、党は、理論的にも大きな成長・発展をきずいていきました。『百年』史は、アメリカの世界戦略を「各個撃破政策」と特徴づけた帝国主義論の発展、「議会の多数を得ての革命」というマルクス、エンゲルス本来の革命論の発展、将来にわたって複数政党制を擁護するなど社会主義の政治体制論の発展などをあげています。
第三に、党は、組織的にも強くなっていきました。党は、国内の闘争と、二つの覇権主義との闘争を通じて国民の信頼を高め、六〇年代を通じて党員を三倍以上、「赤旗」読者を五倍以上に増やしました。自前の財政力も強めました。アマート氏が、日本共産党について、「財政力をふくめ強い党勢」で攻撃を打ち破ったとのべているのは、ヨーロッパの多くの諸党がソ連の資金に依存していたこととの対比で、外国の資金と一切無縁だったわが党の力を見たのだと思います。
みなさん。ここにも、無法な干渉攻撃とのたたかいをつうじて、自らを鍛え、成長させていった、「たたかいの弁証法」が見事にあらわれているではありませんか。(拍手)
日本共産党の「第一の躍進」と反共戦略とのたたかい
《日本共産党の大躍進は、日本の政界を一変させた》
日本共産党は、一九六〇年代末~七〇年代にかけて、六一年綱領確定後の「第一の躍進」をかちとっていきます。六九年十二月の総選挙での十四議席への躍進、七二年の総選挙での三十九議席への躍進は、日本の政界を一変させました。「料亭政治」「なれあい政治」と呼ばれた国会の様相が様変わりし、国会は新たな活力を発揮していきます。革新自治体が全国に広がり、最大時には、日本の人口の四三%が革新自治体のもとで暮らしました。
一九七三年の第十二回党大会が採択した「民主連合政府綱領についての日本共産党の提案」は、大反響を呼び、提案を収録したパンフレットは百数十万冊普及され、他の野党も競い合って「連合政権」構想を提唱する状況が生まれました。私が入党した七三年当時、東京大学の新入生を対象にしたアンケート調査で、政党支持率第一党は日本共産党だったことを鮮明に思い出します。大学のキャンパスには共産党の風がビュンビュン吹いていた。党が打ち出した「七〇年代の遅くない時期に民主連合政府を」というスローガンに、私も仲間たちとともに胸をときめかせたことを思い出します。
《一大反共作戦と、それを打ち破り、成長・発展をかちとった全党の奮闘》
日本共産党の躍進は支配勢力を震撼(しんかん)させました。体制的な危機感を感じた支配勢力は、"共産党抑え込み"を狙った一大反共作戦を発動します。
七〇年代前半から「暴力と独裁の党」という反共キャンペーンを開始し、七六年一月、民社党委員長が、国会の演壇から異様な反共攻撃を行います。同時期から『文藝春秋』誌が二年にわたって党攻撃の連載を掲載します。その内容は、戦前の治安維持法と特高警察の権力犯罪を肯定する「特高史観」の立場から、治安維持法違反事件を使って、日本共産党と宮本顕治委員長を中傷するというものでした。わが党の組織原則である民主集中制に対して、「本質は独裁制」だとして攻撃を集中したことも特徴でした。
わが党は、国会論戦、ビラ、パンフレット、七十五万部を普及した『文化評論』特集号などで、この攻撃に徹底的に反論を加えるとともに、戦前の党の誇るべき姿を明らかにしていきました。攻撃者は最後には沈黙でこたえ、論戦は完全に決着をみました。
さらに党は、政治的な攻勢に出ました。反共攻撃が行われているさなかの一九七六年四月、党は、ロッキード事件の追及に向けた五党党首会談、衆院議長裁定への道筋をつける大きな役割を果たすなど、攻勢的な活動を展開し、政局をリードしました。革新勢力の共同の前進に力をつくし、七六年から七八年にかけて三度にわたって、日本共産党と社会党の党首間で、革新統一戦線の結集をめざす合意がかわされました。
党は、理論的にも成長と発展をかちとりました。とりわけ一九七六年七月の第十三回臨時大会で採択された「自由と民主主義の宣言」は、科学的社会主義の立場をふまえた自由と民主主義についての包括的な宣言として、国内外に反響を広げました。
こうした一連の奮闘によって反共キャンペーンは根底から打ち破られました。支配勢力は党の躍進を抑え込むことができず、党は、七九年の総選挙で、四十一議席と史上最高の議席を獲得しました。この根本には、党建設の前進がありました。党は七〇年代を通じて党勢拡大をさらに前進させ、七九年末に党員は四十万人をこえ、「赤旗」読者は三百九万人に達しました。
徹底的な反撃、政治的な攻勢、理論的な成長・発展、そして党建設の前進によって、反共キャンペーンを打ち破った七〇年代の全党の奮闘に学び、今日に生かすことを、私は強く訴えたいと思います。(拍手)
一九七九年の総選挙での党の頑張りは、"共産党抑え込み"を狙った支配勢力にとって手痛い打撃でした。共産党封じ込めのためには、反共キャンペーンだけでは足りない、共産党を孤立させる政界の反動的再編が必要だ――こう考えた支配勢力は、社会党を反共の側に取り込む政界工作に力を注いでいきました。
四、綱領路線の確立以後(二)――一九八〇~九〇年代
『百年』史・第四章「綱領路線の確立以後(二)――一九八〇~九〇年代」に進みます。
この時期は、一九八〇年一月、社会党が公明党と、日本共産党排除、日米安保条約容認の「社公合意」を結び、日本共産党をのぞく「オール与党」体制がつくられ、日本共産党が自民党政治に対する唯一の革新的対決者となるという政治の大変動のもとで始まりました。
ここから出発し、十数年のたたかいをへて、一九九〇年代の後半、党は、六一年綱領確定後の「第二の躍進」をかちとり、躍進の峰は党史上最高を記録しました。この時代を大きく振り返ってみますと、九〇年代後半の党史上最高の峰への躍進は、つぎの三つの試練に立ち向かい、それを克服して、党の成長・発展をめざした全党の奮闘の結果だったといえます。
第一の試練――日本共産党をのぞく「オール与党」体制とのたたかい
《「無党派の人々との共同」――革新懇運動の四十二年間のかけがえない役割》
第一の試練は、日本共産党をのぞく「オール与党」体制とのたたかいであります。
「オール与党」体制は、党の前進に大きな困難をもたらしました。一九八〇年代、党は国政選挙で「一進一退」を余儀なくされました。革新自治体はつぎつぎに壊され、地方政治でも「オール与党」体制がつくられていきました。共産党排除は、国民運動の統一と発展にとっても重大な障害をつくりだしました。
しかし党はこの一大逆流に屈することなく、一九八〇年二月の第十五回大会で「無党派の人々との共同」という、まったく新しい統一戦線運動の開拓を呼びかけました。翌年の八一年五月、平和・民主主義・生活向上の「三つの共同目標」をかかげ、全国革新懇が結成されました。
革新懇運動は、その後、あらゆる分野で国民の共同を広げるかけがえないよりどころとなり、二〇一〇年代後半の「市民と野党の共闘」を生みだす土台ともなっていきました。二〇二一年五月、革新懇結成四十年にあたって、総がかり行動実行委員会共同代表・市民連合運営委員の高田健さんが、次のような温かい祝辞を寄せてくださったことは忘れられません。
「四十年前、日本の政治変革をめざすための共同行動は極めて困難な状況にありました。そのなかでも革新懇のみなさんは運動の共同を実現するための努力をあきらめず、粘り強く活動を続けてこられました。その努力は二〇一四年、一五年の『戦争法』に反対する全国的な運動の中で大きく実り、総がかり行動実行委員会や市民連合の誕生につながりました」
私は、この四十二年間、中央で、地方で、そして全国の草の根で、革新懇運動を支えてくださったすべての方々に、心からの敬意と感謝を申し上げるとともに、この未来ある運動の発展のために引き続き全力をつくす決意を表明するものであります。(拍手)
《新自由主義、軍事同盟強化、消費税導入――「地殻変動」かといわれた一大激動が》
私がここで強調したいのは、「オール与党」体制によって苦しめられたのは日本共産党だけではない、その最大の被害者は国民だった、ということです。
この時期、自民党は、暮らしと平和を壊す暴走を開始し、あらゆる分野で矛盾が蓄積していきました。今日につながる暴走政治が始まったのはこの時です。日本共産党は暴走に対する唯一の対決者として粘り強い奮闘を続けました。『百年』史は、その攻防を掘り下げて明らかにしています。
臨調「行革」の名で新自由主義――多国籍大企業の利益を最大にするために、暮らしを守る規制を取り払い、公共サービスを切り捨てる弱肉強食の経済政策が、日本に持ち込まれました。それはまず社会保障削減や国鉄など公共部門の民営化にあらわれ、ついで労働法制の規制緩和が行われ、国民生活に破壊的影響を及ぼしました。
日米軍事同盟の侵略的強化が、新たな段階に進みます。日米安保条約の問題は、七〇年代までは日本の米軍基地をベトナム戦争などに使うことが問題の中心でしたが、八〇年代に入るとソ連との軍事対決の際に日本の軍事力をいかに利用するかという新しい問題が前面に出てきます。中曽根内閣がとなえた日本列島「不沈空母」作戦――ソ連の長距離爆撃機を日本列島でくいとめ、米艦隊とシーレーンを防衛する作戦などはその典型でした。
八〇年代後半は、消費税導入をめぐって自民党・「オール与党」との激しいせめぎあいがつづきました。八七年四月、売上税法案が廃案になったさいの衆院議長の「あっせん案」を他党が受け入れるなかで、わが党は、「あっせん案」のなかに「直間比率の見直し」が明記され、新大型間接税導入の火種を残していることを見抜き、断固これを拒否しました。そして消費税反対の国民的たたかいの先頭にたって大奮闘しました。
八九年四月、消費税導入が強行されましたが、「日本列島騒然」と言われた国民の怒りが沸騰しました。こうしたなかでたたかわれた一連の知事選、市長選で、政党としては日本共産党だけが推薦する革新候補が、「オール与党」候補と対決して、四〇%以上の得票を獲得し、マスコミからも「地殻変動」かといわれた一大激動が起こりました。
こうして党の奮闘は、「オール与党」体制を、破綻へと追い込んでいきます。「オール与党」体制は一見強いようですが、この体制の全体が矛盾を深め、行き詰まった場合には、それに代わる「受け皿」は日本共産党しかなくなります。日本共産党包囲の体制をつくったつもりだったのに、反対に自民党政治が国民に包囲され、日本共産党躍進の予兆が生まれるという結果となっていったのであります。
第二の試練――東欧・ソ連崩壊を利用した「社会主義崩壊」論とのたたかい
《第十九回大会、第二十回大会での旧ソ連社会論の解明》
残念ながらこの時の「地殻変動」の予兆は、現実のものとなりませんでした。"共産党は躍進必至"ともいわれていた一九八九年六月、突然引き起こされた中国・天安門事件――民主化を求めた学生・市民への血の弾圧、それを利用した激しい反共攻撃は、情勢を暗転させました。さらに、その直後から進行した東欧・ソ連の旧体制の崩壊を利用した反共キャンペーンが吹き荒れました。わが党は、これらの一連の出来事を利用した「社会主義崩壊」論とのたたかいという、第二の試練に直面することになりました。
わが党は、この試練に正面から立ち向かい、それを乗り越えていきました。一九九〇年七月の第十九回大会で、社会主義を「学説」「運動」「体制」の三つの見地に区別してつかむ意義を明らかにし、レーニン死後、「ソ連の体制は対外的には大国主義・覇権主義、国内的には官僚主義・命令主義を特徴とする政治・経済体制」に変質したと解明したこと、続く九四年七月の第二十回大会で、崩壊したソ連は「経済制度としても社会主義とは無縁であった」ことを明らかにしたことは、「社会主義崩壊」論を攻勢的に打ち破っていくうえで大きな力を発揮しました。
《ソ連共産党解体を歓迎し、未来への大局的展望を語った、世界で唯一の党》
一九九一年八月のソ連共産党解体にさいして、党は九月一日、常任幹部会声明「大国主義・覇権主義の歴史的巨悪の党の終焉(しゅうえん)を歓迎する」を発表し、この党の解体を「もろ手をあげて歓迎」すると表明し、「世界の平和と社会進歩にとっても、日本共産党にとっても、巨大なプラスをもたらすもの」との大局的展望を示しました。
わが党の声明を、フランス国営テレビは注目して報じました。世界広しといえども、このような声明を発表した党は、他に一つもありません。
世界の党の多くが、ソ連崩壊に直面して茫然自失、混迷と方向喪失に陥るなかで、わが党がこの出来事を積極的にとらえ、未来への大局的展望を語ることができたのは、「五〇年問題」、一九六〇年代の干渉とのたたかい以来の、覇権主義との全党の生死をかけたたたかいの結果だったことを、私は強調したいのであります。(拍手)
ソ連崩壊にさいして、「巨大なプラス」と未来への大局的な展望を示したわが党の態度は、日本軍国主義の敗戦直後に、それを歓迎し、「歌声よ、おこれ」といち早く呼びかけた歴史を想起させるものではありませんか。
国政選挙で、わが党は、一九八九年七月の参院選では五議席、九〇年二月の総選挙では十六議席に後退しましたが、九二年七月の参院選では六議席を獲得するという健闘の結果を得ました。国内外に荒れ狂った「社会主義崩壊」論も、わが党を押しつぶすことはできませんでした。覇権主義とのたたかいの歴史を踏まえた全党の不屈の奮闘によって、党はこの試練を立派に乗り越えたのであります。(拍手)
第三の試練――「自民か、非自民か」の反共作戦と、日本共産党の「第二の躍進」
《「非自民政権」から「自社さ政権」へ――バブル経済破綻の矛盾が噴き出す》
次の試練はすぐにやってきます。
第三の試練は、「自民か、非自民か」の偽りの対決構図をおしつけ、日本共産党を「カヤの外」に排除する新たな反共作戦とのたたかいであります。
支配勢力は、「オール与党」体制が抱えるもろさと危うさに直面し、新たな"共産党封じ込め"の戦略が必要だと考えるようになります。一方、自民党政治そのものは、底知れないゼネコン汚職の泥沼に落ち込み、国民の怨嗟(えんさ)の声に包まれます。
こうしたもと、財界を先頭に支配勢力が展開したのが、「自民か、非自民か」の「政権選択」が最大の争点であるかのように国民におしつける作戦でした。この作戦は、日本共産党を選択肢の外に排除する新たな反共作戦でした。
一九九三年七月の総選挙は、私が書記局長としてたたかった初めての総選挙でしたが、大逆風の選挙でした。下りのエスカレーターを逆に駆け上がっているような、がんばっても、がんばっても、なかなか前に進まない、そういう気持ちをあじわった選挙でした。テレビの討論番組に出演しても「共産党はカヤの外では」との質問が出される。討論会もわが党の発言を抑える不公平な運営が少なくなかったことを思い出します。わが党は、偽りの対決構図を正面から批判し、政治の中身を変えることこそ必要だという正論を貫いて奮闘しました。私自身は地元のみなさんの大奮闘と全国のみなさんの支援で辛くも初議席をえましたが、党が十五議席に後退したことは悔しい結果でした。
総選挙の結果、「非自民政権」が誕生し、自民党との談合で、小選挙区制・政党助成金制度の導入という一大汚点を日本の政治史に刻みます。しかし、「非自民政権」は、八つの政党・会派による、にわか作りの寄せ集めだったために、ほどなく自壊していきます。
代わって登場したのが、自民、社会、さきがけの三党連立政権でした。この政権のもとで自民党政治のさまざまな矛盾が噴き出しますが、なかでも深刻だったのは、バブル経済の破綻、その"後始末"、長期不況という問題でした。
まず一九九六年に、矛盾の熱い焦点となったのが、住宅金融専門会社(住専)の不良債権処理のための税金投入問題でした。党は、住専の破綻の責任は、バブル経済で巨額の利益をあげた大銀行にあること、住専の破綻処理は大銀行の責任で行うべきだと主張して、議員団あげての大論戦を行いました。この論戦は大反響を呼びました。大銀行・大企業優遇政治の核心をつくたたかいを展開したのは日本共産党だけでしたが、それは綱領路線の真価を示すものでした。そのことを論戦の渦中で強く実感したことを思い出します。
《三つの試練を乗り越えてかちとった「第二の躍進」――党建設での反省点も》
政党の離合集散のなかで一貫して筋を貫く党への信頼が広がり、新たな躍進の波が起こりました。一九九六年十月の総選挙で、党は二十六議席に躍進、七百二十六万票を獲得しました。さらに九八年の参院選で、党は十五議席、八百二十万票を獲得する躍進をかちとり、史上最高の峰をつくりました。日本共産党の「第二の躍進」であります。
この躍進は、一九八〇年以降に党が直面した三つの試練――「オール与党」体制、「社会主義崩壊」論、「自民か、非自民か」作戦を、全党の奮闘によって乗り越えた結果のものであったことを、私は、この複雑で困難な時期に奮闘された先輩同志のみなさん、ともにたたかった全国の仲間のみなさんへの、心からの敬意と連帯を込めて強調したいと思います。(拍手)
同時に、反省点があります。この躍進には党の実力がともなっていませんでした。『百年』史が率直にのべているように、一九八〇年代から九〇年代にかけての時期は、国内での反動攻勢、旧東欧・ソ連の崩壊という世界的激動と反共の逆風という条件が、党勢拡大に重大な困難をもたらし、「赤旗」読者数は八〇年をピークに減少傾向をたどりました。党員数も九〇年代を通じて後退傾向が続きました。この時期の党建設の方針に党員拡大を事実上後景においやる弱点が生まれたことも、のちに是正されましたが大きな反省点であります。党は、「第二の躍進」を力に、この弱点を克服するとりくみに全力をあげましたが、わが党は新たな試練に直面することになります。
五、綱領路線の確立以後(三)――二〇〇〇年代~今日
『百年』史・第五章「綱領路線の確立以後(三)――二〇〇〇年代~今日」に進みます。
日本共産党の「第二の躍進」に恐れをいだいた支配勢力がまずやったことは、二〇〇〇年六月の総選挙での大規模な謀略的反共キャンペーンでした。出所不明の謀略ビラが大規模に配布され、私も選挙で訴えておりまして、街の空気が急速に冷え込んだことを思い出します。
続いて、〇三年十一月の総選挙を一大契機として、財界が本格的に主導して「二大政党づくり」にのりだし、「自民か、民主か」の「政権選択選挙」を国民におしつけました。党を選択肢の外に排除するこの反共戦略は、党にとって六一年綱領確定後、最大・最悪の逆風として作用し、党は、国政選挙で苦戦の連続を強いられました。二〇〇〇年から二〇一二年までの十二年間に、党は九回の国政選挙をたたかいましたが、一度も勝利を手にできず苦戦が続きました。まさに"試練の十二年間"となりました。
しかし党は、この大逆流に対して、結束して不屈にたちむかい、成長と発展のための努力を重ねていきました。それはやがて二〇一〇年代中頃の日本共産党の「第三の躍進」につながり、党は、躍進した力を背景に「市民と野党の共闘」という党史上でも初めての挑戦にのりだすことになります。
"試練の十二年間"に全党がとりくんだ成長と発展のための努力
"試練の十二年間"に、全国のみなさんが力をあわせて取り組んだ成長と発展のための努力として、私は、五つの点をあげたいと思います。
《全党の英知を総結集し、党綱領と規約を二十一世紀にふさわしい内容へと改定した》
第一は、全党の英知を総結集して、党綱領と規約を二十一世紀にふさわしい内容へと、抜本的に改定したことであります。
二〇〇〇年十一月に開かれた第二十二回党大会で行った規約改定は、民主集中制の内容を分かりやすく定式化するとともに、党の組織と運営の民主主義的な性格をいっそう明確にし、今日とりくんでいる「双方向・循環型」の活動の大きな力となっていきました。
二〇〇四年一月に開かれた第二十三回党大会で行った綱領改定は、綱領路線を大きく発展させる画期的な改定となりました。それは民主主義革命の理論と方針をより現実的かつ合理的に仕上げるとともに、二十世紀に進行した人類史の巨大な変化の分析にたって、二十一世紀の世界の発展的な展望をとらえるという新しい世界論を明らかにしました。さらに、わが党がめざす社会主義・共産主義の社会について、「人間の自由で全面的な発展」というマルクス、エンゲルスの未来社会論の真の輝きを発掘し、綱領の根幹にすえました。
新しい綱領は、内外の情勢を主導的に切り開く豊かな生命力を発揮していきます。それはさらに、二〇二〇年一月に開かれた第二十八回党大会で行った綱領一部改定によって発展させられ、「発達した資本主義国での社会変革は、社会主義・共産主義への大道」という命題が綱領に太く書き込まれ、この事業のもつ壮大な可能性がより豊かな形で明らかにされていきます。
大がかりな"共産党抑え込み"の攻撃のもとで、党が冷静に、科学的社会主義の精神を発揮して、党綱領路線の発展という一大事業をなしとげたことは本当に大きな意義があったと思います。
《"国民の苦難軽減"という立党の精神に立ったとりくみをうまずたゆまず進める》
第二は、"国民の苦難軽減"という立党の精神に立ったとりくみを、全国の草の根で、国民とともにうまずたゆまず進めたことであります。
この時期、自公政権によって新自由主義の暴走がいよいよひどくなります。社会保障削減、派遣労働拡大など、弱肉強食の政治が社会を覆いました。格差と貧困が拡大し、二〇〇八年のリーマン・ショックのさいには、大量の「派遣切り」が行われ、多くの労働者が路頭に放り出され、「派遣村」が現れました。アメリカのアフガニスタン報復戦争、イラク侵略戦争にさいして、自衛隊の海外派兵が強行され、憲法九条改定の動きが強まりました。わが党は、あらゆる問題で、暮らしと平和を壊す暴走に正面から立ちはだかり、国民の苦難軽減、平和と民主主義のために奮闘しました。
二〇一一年三月十一日に発生した東日本大震災、東京電力・福島第一原発事故にさいして、党は、被災地の救援・復興のために献身的に力をつくすとともに、原発政策を発展させ、「原発ゼロの日本」をめざす国民的共同の一翼を担って奮闘しました。
この時期の"国民の苦難軽減"のための党の奮闘は、さまざまな分野での「一点共闘」と呼ばれた国民的共同づくりにつながっていきました。さらにそれは、その後、「市民と野党の共闘」へとつながっていきます。
《自公政治に代わる新しい政治を国民とともに探求する、という姿勢で奮闘する》
第三は、自民党政治の衰退過程が進むもとで、党が、自公政治に代わる新しい政治は何かを国民とともに探求する、という姿勢で奮闘したことであります。
二〇〇七年の参院選で自公政治ノーの審判が下りました。このもとで、党は、"自公政治ノーの審判は明瞭となったが、それに代わる新しい政治とは何かが明らかになったわけではない""自公政治に代わる新しい政治の中身を探求する新しい時代が始まった"と日本の情勢を分析し、「綱領を語り、日本の前途を語り合う大運動」を呼びかけました。二年間で、全国津々浦々で「集い」がとりくまれ、九十万人が参加する空前の運動に発展しました。
二〇〇九年九月、民主党政権が誕生したさい、党は、当初は、「良いことには賛成、悪いことには反対、建設的提案を行う」という対応を行いました。まもなく民主党政権は、辺野古新基地建設問題、消費税増税問題、原発再稼働問題などで自民党と同じ立場に落ち込み、失敗に終わりますが、党が、新しい政治を探求する国民の気持ちに寄り添って、前向きの展望をともに見いだすという姿勢を貫いたことは、その後の党躍進につながっていきました。
《新しい方針のもと、野党外交の本格的発展にとりくむ》
第四は、野党外交の本格的発展にとりくんでいったことであります。
一九九九年に、党は外交方針を、従来の共産党間の交流から、より広い視野での交流へと発展させました。この外交方針の発展が二〇〇〇年代に入って本格的な力を発揮しだしました。党は、この新しい方針のもと、韓国や米国への党首としては初めての訪問、二〇一〇年の核不拡散条約(NPT)再検討会議への参加、アジア政党国際会議(ICAPP)への参加、東南アジア諸国連合(ASEAN)との交流などにとりくんでいきました。
これらの新しい外交的努力は、核兵器廃絶をはじめとした人類的課題への貢献になるとともに、激動する世界の生きた姿に直接接することで党の認識を豊かにし、その後、東アジアに平和をつくる「外交ビジョン」の提唱など党の外交政策を発展させ、党綱領の世界論を発展させるうえでの大きな力となっていきました。二〇一七年七月の核兵器禁止条約の成立にさいして、わが党代表団が被爆者や市民団体のみなさんとともに国連会議に参加し、公式の発言を行い、この歴史的条約の誕生に貢献したことは、党の歴史上も特筆すべき出来事と言ってよいのではないでしょうか。
《国政選挙のたびごとに、内外の声に学んで掘り下げた総括を行い、改革の努力を続けた》
第五にのべておきたいのは、党が国政選挙のたびごとに、内外の声に学んで掘り下げた総括を行い、活動の改革と刷新のための努力を続けたことであります。
とくに二〇一〇年七月の参院選で、党は、三議席、得票率六・一%への後退をきっし、それは"試練の十二年間"のなかでも最も厳しい結果となり、党内外から厳しい批判や叱咤(しった)の声が寄せられました。山のように寄せられ、そのすべてを読んだものです。『百年』史では、「党は、参議院選挙での後退をきわめて重大にうけとめ、......根本的な選挙総括をおこないました」と特記していますが、党は、九月の中央委員会総会で、選挙総括の特別の報告も行い、政治論戦を「批判と同時に打開の展望を示す」ものへと発展させること、「綱領・古典の連続教室」の開催をはじめ党建設の抜本的強化をはかることなど、活動の改革と刷新の方向を打ち出しました。最も厳しい結果のさいに、党が、統一と団結を固め、全党の知恵を結集して冷静に前進の方途を明らかにしていったことは、その後の躍進を準備したといえるのではないでしょうか。
日本共産党の「第三の躍進」と、"共闘の八年間"
《「第三の躍進」――"試練の十二年間"に全党がおこなった不屈の奮闘の結果》
新しい躍進は首都・東京から始まりました。二〇一三年六月の都議選で党は八議席から十七議席に躍進し、直後の七月の参院選で改選三議席を八議席へと躍進させました。さらに一四年十二月の総選挙で六百六万票を獲得し、八議席から二十一議席への躍進をかちとりました。一六年七月の参院選でも六百一万票を獲得し、改選三議席を六議席へと躍進させました。日本共産党の「第三の躍進」が現実のものとなりました。
この時の喜びは、全国のみなさんにとって、特別のものがあったのではないでしょうか。二〇一三年の都議選で躍進をかちとった直後、参院選が始まりましたが、東京での第一声でも、全国のどこに行っても、訴えの冒頭で、「都議選で躍進をかちとりました」と切り出しますと、その一言で、聴衆のみなさんから喜びの歓声が沸き起こったことを思い出します。
この躍進は、自然にやってきたものではありません。それは"試練の十二年間"に、全党のみなさんが、後援会員・支持者のみなさんとともに、党を支え、成長と発展のための不屈の奮闘をつづけたことの結果だったということを、私は、ともにたたかった仲間のみなさんとともに確認したいと思うのであります。(拍手)
《"共闘の八年間"を踏まえて三つの点を訴える》
躍進した党は、「市民と野党の共闘」という党の歴史でかつてない挑戦にふみだしました。
全国のさきがけになったのは沖縄のたたかいでした。二〇一四年、辺野古新基地建設反対の「オール沖縄」が、名護市長選挙、県知事選挙、総選挙で連続勝利をかちとりました。
つづく二〇一五年、安倍政権が進めた「戦争法」=「安保法制」に反対する国民的たたかいが高揚するなかで、党は、今からちょうど八年前の二〇一五年九月十九日、「戦争法(安保法制)廃止の国民連合政府」を提唱し、野党の全国的規模での選挙協力を呼びかけました。私たちは、その後、二回の総選挙、三回の参院選を野党共闘でたたかいました。たたかいは現在進行形であり、前途には困難も予想されますが、私は、"共闘の八年間"を踏まえて三つの点を訴えたいと思います。
第一は、「市民と野党の共闘」が、確かな成果をあげてきたという事実を確認しようということです。
二〇一六年と一九年の参院選では、全国三十二の一人区のすべてで野党統一候補を実現し、一六年には十一の選挙区、一九年には十の選挙区で勝利をかちとりました。二〇一七年の総選挙は、「希望の党」による共闘破壊の一大逆流が起こるもとでも、共闘を守り抜き、三十二の小選挙区で共闘勢力が勝利しました。二〇二一年の総選挙は、二十項目の「共通政策」を確認し、政権協力の合意を確認し、政権交代に正面から挑戦するなかで、共闘勢力で一本化した五十九の小選挙区で勝利をかちとりました。
「野党共闘は失敗した」という非難は事実と違います。ともに共闘にとりくんできた方々に私は訴えたい。課題や弱点を抱えながらも、多くの人々の力に支えられてこの八年間、共闘が確かな成果をあげてきたことは誰も否定できない事実であり、この事実をみんなで確認することが、次を展望するうえで不可欠ではないでしょうか。(拍手)
第二は、「市民と野党の共闘」の発展のためには、自民党や一部メディアなどによる野党共闘攻撃に対して、きっぱりと立ち向かう立場にたつことが避けて通ることができないということであります。
二一年の総選挙で、共闘勢力の大攻勢に対して、恐怖にかられた自公と補完勢力は、「安保・外交政策が違う政党が組むのは野合」、「(自公の)自由民主主義政権か、共産主義(が参加する)政権かの体制選択選挙」などという激しい攻撃を加えました。こうした攻撃に対して、野党が力をあわせて共闘の大義を訴え、力をあわせて反撃の論陣を張るまでには至らなったことは、大きな弱点でした。
野党共闘攻撃は、古い政治にしがみつくものが共闘をいかに恐れているかを示すものです。それは古い政治を変えるうえで共闘がいかに重要であるかの証明にほかなりません。"共闘の八年間"は、共闘を真剣に前進させようとするならば、攻撃に対して、ひるんだりおびえたりするのでなく、正面から立ち向かうことの重要性を示しているのではないでしょうか。(拍手)
第三は、つよく大きな日本共産党を建設し、党の政治的躍進をかちとることこそ、共闘が直面する困難を克服し、共闘を再構築するうえでの決定的な力になるということであります。「第三の躍進」にさいして、私たちが痛感したことは、政治的躍進と党の実力には大きなギャップがあるということでした。また、「市民と野党の共闘」と日本共産党の躍進を同時に達成するためには、わが党の実力はあまりに小さいということでした。
全国のみなさん。この点を直視し、とくに二一年の総選挙を契機に強まっている新たな反共キャンペーンを打ち破り、党をつよく大きくする「大運動」をあらゆる力を結集して成功させ、来たるべき総選挙での日本共産党の躍進を必ずかちとろうではありませんか(拍手)。それこそが共闘の再構築にとっても最大の力となることを肝に銘じて、奮闘しようではありませんか。
むすび――新たな百年のスタートの年にあなたも日本共産党に
お話ししてきたように、日本共産党の一世紀の歴史は、党の前進を恐れ、阻もうという勢力からの激しい攻撃に正面から立ち向かい、その中で自らを鍛え、成長と発展のために奮闘してきた歴史であります。攻撃は戦前は天皇制権力から行われた。戦後は自民党など支配勢力から行われた。それだけではありません。マッカーサーによる弾圧が行われた。スターリンとその後継者による干渉もありました。中国の毛沢東派による干渉もありました。国内の相手だけでなく、外国からもさまざまな攻撃がやられた。これらのすべてと正面からたたかい、自らを鍛え、成長させてきた。これが日本共産党の歴史であります。
先人たちの苦闘、全党のみなさんの奮闘によって、党は、世界的にもまれな理論的・政治的発展をかちとり、組織的にも時代にそくした成長と発展のための努力を続けてきました。同時に、『百年』史が最後に率直に明らかにしているように、党はなお長期にわたる党勢の後退から前進に転ずることに成功しておらず、ここにいまあらゆる力を結集して打開すべき党の最大の弱点があります。
内外の情勢は、この現状の打開を強く求めています。
自民党政治の行き詰まりは目を覆うばかりではありませんか。長期にわたって賃金が下がり、経済成長が止まり、安心して子どもを産み育てることが困難となり、食料とエネルギーの自給さえできない。アメリカに自ら進んで従属する卑屈な政治のもと、外交不在・軍事一辺倒の危険な暴走が続いている。そして世界でもひどい「ジェンダー不平等・日本」。こんな政治を続けていいのか。深いところからの問いかけと模索が広がっています。
世界に目を転じると、年々深刻になる気候危機、新興感染症の多発、貧富の格差の深刻な拡大のもとで、地球環境を破壊し、人間らしい生活条件を破壊する資本主義というシステムをこのまま続けていいのかという問いかけが起こっています。
みなさん。内外の情勢は、変革の党――日本共産党がつよく、大きな党に成長することを、痛切に求めているのではないでしょうか。(拍手)
私が強調したいのは、私たちが、危機の打開を求める人々の問いかけにこたえる確かな科学的羅針盤を持っているということであります。一九六一年に土台がすえられ、二〇〇四年と二〇年の改定によって現代にふさわしく発展させられた綱領には、「アメリカ言いなり」「財界中心」のゆがみをただす民主主義革命の道筋とともに、「人間の自由」「人間の解放」という社会主義・共産主義の壮大な展望が示されています。
そこには、二つの覇権主義との論争の中で、また日々ぶつかる日本と世界の諸問題との切り結びの中でとりくんできた、マルクス・エンゲルスの本来の理論を復活させ、現代に生かす活動――これらの理論的・政治的発展のなかで大きな役割を果たしてきた不破哲三さんの言葉を借りれば「科学的社会主義の『ルネサンス』」とも呼ぶべき活動――の成果がすべて込められています。
こうして手にした綱領の魅力を広く伝えきるならば、つよく大きな党をつくることは必ずできる。みなさん。ここに深い確信をもち、綱領を縦横に語り、歴史に深く学び、つよく大きな党をつくる仕事に、新たな決意でとりくもうではありませんか。(拍手)
最後に訴えたいのは、きょうの講演を聞いていただき、私たちの歴史と綱領に共感していただいた方は、新しい百年のスタートの年となる党創立百一周年のこの機会に、どうか日本共産党に入党していただきたいということです。
日本共産党の歴史は、試練続きだったというお話をしました。しかし、私たちが体験してきた試練は、百一年の歴史が証明しているように、私たちが、平和・民主主義・人権・暮らしのために、国民とともに不屈にたたかい、それをはばむゆがんだ政治を「もとから変える」ことを大方針に掲げている革命政党であることの証しであり、私たちにとって名誉なことではないでしょうか。(拍手)
そして、試練に挑戦し、そのなかで自らの成長をかちとることにこそ、人間としての本当の喜びがあり、本当の幸福があるのではないでしょうか。たった一度きりしかない大切な人生を、どうかこの党とともに歩んでいただきたい。そのことを心から呼びかけて、講演を終わりにいたします。
日本共産党創立百一周年万歳。ありがとうございました。(大きな拍手)