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2012年1月1日(日)

創立90周年の年にふさわしい躍進を

志位委員長 新春インタビュー

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聞き手
小木曽陽司・赤旗編集局長
大内田わこ・同局次長


歴史に学び、国民に語り、党の新たな躍進を

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 小木曽陽司赤旗編集局長・大内田わこ同局次長 あけましておめでとうございます。

 志位和夫委員長 あけましておめでとうございます。

 小木曽 新しい激動の年が明けました。まず、委員長に今年の抱負をおうかがいしたいと思います。

 志位 昨年は、東日本大震災と原発事故という未曽有の危機が起こり、私たちは、多くの方々と共同して救援・復興に力をそそいできました。危機のなかで未来を開く新しい流れも起こっています。しかし、なお被災者の方々の生活再建は大きく立ち遅れており、「安心して住み続けられる故郷」をとりもどすまで力をつくす決意です。

 同時に、日本共産党にとって今年は、創立90周年の年です。解散・総選挙も予想される年になりますが、90周年にふさわしい躍進の年にしたいというのが最大の抱負です。

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(写真)小木曽陽司赤旗編集局長(右)と大内田わこ次長

 大内田 歴史的な年にふさわしい頑張りを、ということですね。

 志位 今年をそういう決意で頑張りたいし、頑張りいかんでは躍進を実現する条件は大いにあると考えています。

 よく「なぜ名前を変えないのか」ということが言われますが、戦前、戦後の激動の90年間を同じ名前で頑張っている党は、日本では日本共産党以外にありません。その道のりは平たんではありませんでしたが、戦前の暗黒政治と侵略戦争の試練、戦後のアメリカ占領の試練、旧ソ連と中国・毛沢東派による無法な干渉の試練、そして支配勢力による反共「封じ込め」の試練など、あらゆる試練にたいして、国民の利益を守って正面からたたかってきた。他のもろもろの党のように、「時流」に流され、国民の利益を裏切ったことはありません。日本共産党という党名は、この90年のたたかいと深くむすびついたものです。

 多くの先達(せんだつ)たちのたたかいは、いまに生きる私たちに「宝」ともいうべき多くの財産をつくってくれています。90年の歴史に学び、それを誇りをもって広く国民に語り、党の新たな躍進を必ずかちとる。そういう年にしていきたいと思います。

党史の三つの時期

「第1の時期」――戦前のたたかいには日本共産党の原点がある

 小木曽 90年の歴史に学ぶということですが、1世紀近い歴史を概括するとどういうことになるでしょうか。

 志位 大まかにいって、三つの時期があります。

 「第1の時期」は、日本共産党が創立された1922年から、アジア・太平洋戦争が終わった1945年までの23年間です。この期間の活動には、日本共産党にとって原点ともいうべきものが凝縮されています。非合法下での迫害や投獄に屈することなく、天皇中心の暗黒政治に正面から立ち向かい、国民主権と反戦平和の旗、さらに人間解放と未来社会をめざす旗を掲げ続けた。それが比類のない先駆性、全体としての正確さをもっていたことは、歴史によって検証されました。

 小木曽 この時代の先達たちの生き方から私たちは何を引き継ぐべきでしょうか。

 志位 たくさんのものがあると思いますが、私は、どんな困難な情勢のもとでも社会進歩の大義をつらぬき、その事業が最後には勝利するという展望を失わなかった「不屈性」に学びたいと思います。

 渡辺政之輔、川合義虎、市川正一、小林多喜二、野呂栄太郎、岩田義道、上田茂樹、国領五一郎など、多くの諸先達が弾圧で命を落としました。伊藤千代子、高島満兎、田中サガヨ、飯島喜美など、弾圧の中で節をまげず命を落とした若い女性――この4人の同志はそろって24歳の若さで亡くなったわけですが――など無数の人々のたたかいも、私たちの胸を打ってやまないものがあります。

「反戦によって日本人の名誉を救った」

 志位 宮本顕治さんは、12年の獄中を不屈にたたかいぬきました。宮本さんが、法廷で、自らの無実と運動の大義を、事実と道理をもって諄々(じゅんじゅん)と説き明かした「公判記録」を読みますと、よくもあの時代にあれだけの理性的なたたかいをやりぬいたものだ、という強い感動を覚えずにはいられません。

 大内田 宮本さんが07年に亡くなられたときに、加藤周一さん(08年に死去)が、「宮本さんは反戦によって日本人の名誉を救った」という談話を寄せてくださいました。

 志位 あのときの加藤さんの談話は、本当にうれしく、心が温まるものでした。宮本さんが亡くなったのは、2007年7月の参院選の最中のことでした。私は、たまたまその日の夜に、テレビ朝日のインタビュー出演があり、スタジオに入って出番を待つときにテレビの画面を見ていますと、元気なころの宮本さんの姿が放映されて、それを見てふいに熱いものが込み上げてきたことを思い出します。インタビューでは「大きな仕事をした大きな人が亡くなった」と追悼の言葉をのべましたが、この時期の党のたたかいはひとり日本共産党だけのものではなくて、日本国民全体の財産といってもよいと思います。文字通り「日本人の名誉を救った」のが、この時期のたたかいでした。

多喜二の作品が、時代をこえ、世界のたたかいを励ます

 小木曽 本当にそう思います。小林多喜二の『蟹工船』などの作品は、いま海外でも翻訳されていると聞いています。

 志位 多喜二の『蟹工船』は、貧困と格差が広がるなかで、この間、日本でも一大ブームとなりましたけれども、韓国、イタリア、フランス、スペインなどでも翻訳され、多数の読者を得ていると聞きます。

 昨年1月には、スペインで『党生活者』が翻訳・刊行されたそうです。スペインでは『蟹工船』が翻訳・刊行されて、1万人以上の読者を獲得するという成功をおさめた。それをふまえて、第2作の紹介として『党生活者』の翻訳・刊行になったとのことです。スペイン訳の書名は『同志』(エル・カマラダ)だとのことです。

 戦前の先達たちが苦闘のなかから生み出した芸術作品が、時をこえて21世紀に、日本の若者だけでなく、はるかに世界各国に広がり、貧困や格差とたたかう人々を励ましているのは、本当にうれしいことです。

「第2の時期」――戦後の十余年のたたかい

 小木曽 今のお話を聞いて、戦前のたたかいは本当に誇るべき不屈の歴史だと思いました。戦後のたたかいの歴史を概観するとどういうことになりますか。

 志位 わが党の党史の「第2の時期」は、1945年の敗戦から十余年の時期です。この時期にわが党は、アメリカ軍の全面占領のもとで初めて公然とした活動を開始し、さまざまな曲折、重大な試練をへて、1958年の第7回党大会で自主独立の路線を確立し、1961年の第8回党大会で綱領路線を確立しました。

 敗戦後のたたかいでは、主権在民という党創立以来の主張を日本国憲法に明記させるうえで、党が果たした歴史的役割は大きいものがあります。この時期、日本共産党は、ポツダム宣言の完全実施、全面講和を主張し、日本がアメリカの基地として永久化されることに反対してたたかいました。

曲折と試練を経て、自主独立の路線、綱領路線を確立する

 志位 アメリカ占領軍は、1950年、朝鮮戦争が始まるのと前後して、牙をむき出しにして襲いかかってきました。日本共産党の指導部全員に公職追放をくわえ、「赤旗」を発禁にし、党は半非合法状態におかれました。

 この弾圧は無法なものでしたが、この時期に、日本共産党そのものは、ソ連・中国からの干渉を受けて、分裂状態におちいりました。干渉に内通した一派は、弾圧とたたかうべきときに、逆に弾圧を利用して、党の分裂を強行したのです。

 大内田 いわゆる「50年問題」と呼ばれるものですね。

 志位 そうです。このときに党の分裂に反対し、統一のために力をつくした宮本さんは、「50年問題」を「党史上、最大の悲劇的な事件」と言っています。このときの干渉の総司令官はソ連のスターリン。副官は中国でした。武装闘争を日本共産党に押し付けようという干渉がおこなわれ、党中央の一部が内通・呼応して、中央委員会が解体された。

 ソ連崩壊後に出てきた資料で、この干渉がいかに大がかりで、謀略的なものだったか、その全貌が明らかになりました。当時はきわめて制約された事実しかわからないもとで、分裂の原因と責任を的確につきとめ、確固とした統一をかちとった。このときの先達たちの勇気と理性も、すごいものがあると思います。

 この党史上最大の危機を乗り越える過程で、日本共産党は、自主独立の路線――自らの国の革命運動は自らの頭で決める、どんな大国でも干渉や覇権は許さない――という路線を確立し、党の綱領路線を確立しました。

 たいへんな苦闘をつうじて、今日の発展の礎石をつくりあげた時期が、この「第2の時期」だと思います。

「第3の時期」――綱領路線の半世紀のたたかい

 小木曽 そういう苦闘を経て半世紀前に綱領路線を確立しました。その核心はどういうところにあるのでしょうか。

 志位 最大の核心は、日本が直面している革命は、社会主義革命ではなく、独立・民主・平和の日本をつくる民主主義革命だと、ズバリ明らかにしたことにあります。また「議会の多数を得て、社会の段階的発展をすすめる」という路線を、さだめたことにあります。「発達した資本主義国での民主主義革命」という路線は、当時の世界の運動の「常識」を覆した、きわめて先駆的なものでした。

 党史の「第3の時期」は、こういう綱領路線をもち、国民のたたかいと政治的・理論的探求のなかで、その路線をたえず発展させた、1961年以降の半世紀です。この半世紀に、わが党は、正確な路線のもとで、全体として大きな前進と成長をとげました。山あり谷ありですけれども、全体としてみれば、国政でも地方政治でも影響力を大きく拡大した半世紀だったと思います。

ソ連、中国による干渉とのたたかい――党を鍛え多くの財産が

 大内田 この時期に、すぐに直面したのがソ連と中国という大国による干渉とのたたかいでしたね。

 志位 そうですね。1960年代に開始されたソ連と中国・毛沢東派の双方による無法な干渉攻撃に対して、わが党は正面からたたかい、どちらにも誤りを認めさせました。片方(ソ連)は相手が崩壊するという形で、片方(中国)は理性的な解決という形で、歴史的にこの問題に決着がつきました。二つの大国からの干渉に、党の生死をかけてたたかいぬき、決着をみたということは、「20世紀の歴史的偉業」といってもよい、世界に類のないものだったと思います。

 小木曽 このたたかいをつうじて、多くの財産がつくられましたね。

 志位 その通りです。このたたかいをつうじて、わが党は、政治的・組織的に鍛えられただけではありません。理論的にも発展をかちとりました。

 たとえばアメリカ帝国主義論では、1960年代のアメリカの世界戦略を分析して、「各個撃破政策」という解明をおこないました。「議会の多数を得ての革命」論をより明確にしていきました。複数政党制を将来にわたって擁護するなど社会主義の政治体制論でも政策を発展させました。ソ連の覇権主義の歴史的追跡をおこない、その成果は、不破哲三さんの『スターリンと大国主義』(1982年)などに結実しました。「資本主義の全般的危機」論というスターリンに由来するドグマ(教条)を清算しました。

 理論の面で、スターリンによる科学的社会主義の歪曲(わいきょく)を総決算し、さらに探求は、レーニンの理論の歴史的吟味にまですすみました。そういうなかで、マルクス、エンゲルスの本来の姿が、現代に力をもって豊かに生き生きとよみがえった。こういう大きな成果も得たと思います。

新しい綱領――全党の開拓と苦闘を踏まえた画期的な理論的到達

 小木曽 そういうなかで2004年に第23回党大会が開かれ、そこで新しい綱領が決まったわけですね。

 志位 新しい綱領は、1961年に綱領路線を確定していらいの、全党の開拓と苦闘、政治的・理論的探求を集大成したものだと思います。新綱領は、民主主義革命の路線をより現実的・合理的なものに仕上げるとともに、世界論、未来社会論などで、61年綱領が抱えていた制約や問題点を大胆に清算して、画期的な理論的到達を築きました。

 こうして、この半世紀を見ますと、日本共産党は政治路線においては、正確な道を揺るがず歩んできたということが言えると思います。同時に、正確な路線をもてば一路前進になるかというと、そうであれば楽なんですが(笑い)、現実はそうはいかない。

 小木曽 そう、単純ではないと。

 志位 あとで詳しくお話ししますが、正確な路線のもとでの前進は、それを恐れるがゆえの支配勢力による反共作戦を呼び起こし、それとたたかう過程で次の躍進を準備する。その連続でもあったというのがこの半世紀だと思います。

 党史の「第3の時期」は、私たちが「政治対決の弁証法」と呼んでいる曲折と波乱と試練がつづいた半世紀だったといえます。

試練の連続――そのなかで貫かれた「不屈性」と「先駆性」

 大内田 党史は一言でいって試練の連続ですね。

 志位 その通りですね。戦前、戦後をつうじて、党がたんたんと、順風満帆、発展したという時期は一つもありません。試練とのたたかいの連続であり、開拓と苦闘の歴史です。その歴史の全体を振り返ってみて、どこかから「追い風」が吹いてきたという時期というのはないんですよ。わが党が躍進した時期は何回かあるけれども、その時の「風」はすべて自力で起こした「風」なのです。逆風の時期が多いと言ってもいい。それは社会を根本から変革する志をもつ集団には避けられないことだし、むしろ光栄なことではないでしょうか。

 しかし、その全体をつうじて、どんな困難にも負けない「不屈性」、科学の力で先を見通す「先駆性」を発揮してきた。そして「国民の苦難軽減のために献身する」という立党の精神を貫いてきた。この歴史は本当に誇るべきものであり、それは今に生きる巨大な力を持っていると確信します。

党史を学び、党史を生かしたたたかいを

 大内田 党史を学び、党史を今日に生かしていくことは本当に大切だと思います。党史を学ぶことで、自分もそういう先駆者の心を自分のものとしてたたかっていけるというか、その「不屈性」を受け継いで頑張っていけるというふうに思えるのです。

 志位 そうですね。私たちの先達たちが発揮した「不屈性」を私たちが学んで、それを受け継いでいくということに大きな誇りを持つ。同時に、多くの党員のみなさんは、党史を自らも体験されているわけですね。そういう自らの体験の中で、党が「不屈性」と「先駆性」を発揮してたたかったことを思い起こして、またそこに自らの頑張りを重ね合わせて、未来を確信をもって展望することが大切ではないでしょうか。

 小木曽 党史を学ぶうえで、さまざまな文献があると思いますが。

 志位 学ぶべき文献はたくさんありますが、『日本共産党の八十年』(党出版局)、不破哲三さんの『日本共産党史を語る(上下)』(新日本出版社)を、まずおすすめします。

 それから、昨年発刊された『不破哲三 時代の証言』(中央公論新社)は、綱領路線を発展させる先頭に立ち、党史を切り開いてこられた不破さんならではの、たたかいの生きた息遣いが伝わってくるもので、党史を理解するうえでも読まれることをおすすめしたい、と思います。

いまに生きる力(1)――大震災・原発事故

「国民の苦難軽減のために献身」――立党の精神が危機のなかで発揮されている

 小木曽 私たちの党史が、現在に、どういう形で生きているのか。つぎに、それについてうかがいたいと思います。去年の最大の出来事は、大震災、原発事故でした。

 志位 私は、この危機をつうじて、二つのことを実感しています。

 一つは、この出来事が、多くの国民の価値観、生き方、政治と社会への見方を、大きく変えたということです。これまで「自己責任」論を押し付けられ、ばらばらにされてきた国民のなかに、温かい社会的連帯の機運が広がった。原発事故をつうじて、国民が「政治には巨大なウソがある」ということを見抜き、真実の政治を求めだした。

 もう一つは、こうした国民の変化のなかで、「国民の苦難軽減のために献身する」という日本共産党の立党の精神が発揮され、それが多くの被災者の信頼を広げているということです。私も何度か被災地に足を運びましたが、自らの家、家族や友人を津波で流されながら、避難所で、仮設住宅で、懸命に復興にとりくむ、被災地の同志たちの不屈の奮闘が続いています。この姿に接し、本当に胸が熱くなるものがあります。

 冬を迎えた被災地の仮設住宅で、「青空市」など、被災者に寄り添った活動が続けられています。2月には、岩手県の陸前高田市の県立病院の仮診療所に入院施設が完成するということです。福島県では、モモとあんぽ柿の全面賠償を東電に約束させました。被災地のさまざまな諸団体と共同しての日本共産党の頑張りによるものだと思います。

 全国から寄せられた募金は9億3千万円をこえ、ボランティアはのべ2万1千人をこえました。とくに若いみなさんがボランティアに参加し、みちがえるように成長していることは、うれしいことですね。

 大内田 そういう話を聞くたびに、日本共産党ならではのものだと思うんですけども。

 志位 そうですね。困っている人がいたらいてもたってもいられない。誰かれにいわれなくても行動せずにはいられない。そういう素晴らしい人間集団が日本共産党だということを、つくづく感じます。

 「国民の苦難軽減のために献身する」という立党の精神は、90年の歴史を経て、日本共産党の「体質」というか、「DNA」となっていると実感します。それが、この国民的危機にさいして発揮されていることは、本当に誇らしいことだと考えます。

災害から国民の命を守るために頑張りぬいた歴史 

 小木曽 去年の党創立89周年記念講演で、委員長が「関東大震災」や「昭和の三陸大津波」での日本共産党の救援活動の話を紹介され、大きな感動をよびおこしました。

 志位 創立89周年の記念講演の準備のさいに、過去、日本国民を襲った大災害にたいして、日本共産党がどう行動したかを調べてみると、いつでもどこでも、例外なく救援活動の先頭にたった先達の姿がありました。

 「関東大震災」(1923年)が起こったとき、川合義虎(日本共産青年同盟・初代委員長)らは不屈の救援活動をつづけ、その直後に官憲によって虐殺されています。1933年の「昭和の三陸大津波」のさいには、当時の「赤旗(せっき)」が大々的に救援のキャンペーンを張ります。

 小木曽 いまの「しんぶん赤旗」のように。

 志位 そうですね。それにこたえて、砂間秋子さん(東京の大崎無産者診療所の看護師)らが、岩手県・田老村まではるばる救援にかけつける。ここでも救援をはじめたらその直後に官憲によって拘束・弾圧されるという事態になりました。

 天皇制権力は、被災者救援よりも彼らの「治安維持」を優先させて弾圧をおこなったわけですけれども、無法で残虐な弾圧のなかでも、災害から国民の命を守るために、それこそ命がけで頑張り抜いた足跡が歴史に刻まれています。

 1995年の阪神・淡路大震災をはじめ、戦後の数々の災害にさいしても、この伝統は脈々と受け継がれ、それが昨年の大震災にさいしても力強く発揮されている。まさに90年の「党史の力」が発揮されていると思います。

自民党幹部も驚く「存在感」――90年の党史の積み重ねのうえに

 大内田 本当にそうだと思います。この間、被災3県の県議会選挙で、日本共産党が躍進しました。その背景には、「この党だからこそ私たちの気持ちがわかってくれる。だからこの党を大きくしなければいけない」という県民のみなさんの気持ちが、ぐっとそこに集まったんだと思います。

 志位 そうですね。岩手、宮城、福島の3県合計で、日本共産党は6議席から11議席になりましたから、画期的な躍進です。

 小木曽 「しんぶん赤旗」の見出しでも久々に「躍進」の言葉を掲げました。(笑い)

 志位 それぞれの政策論戦が的確だったことはもちろんですが、根本には、3・11以来の被災者の苦しみに寄り添って頑張り抜く党の姿に、党派の違いをこえて信頼と共感が寄せられた結果だと思います。ある自民党幹部はつぎのように語ったと聞きました。

 「被災地で本当に共産党の姿が目についた。復旧・支援活動をやっていた共産党の存在感が、議席を増やしたことにつながったのは間違いない。3県の自民党支部、関係者から、あっちにも、こっちにも共産党がいる、ここにも共産党のボランティアが入っている、という報告があがってきていた。他の政党はかすんでいた。こういう(国難の)とき、共産党の人たちは、本当に無私になってよく動く。そういう存在感というのは、日本の政党のなかでは共産党しかもっていない」

 他の党では逆立ちしてもまねができない。自民党の幹部も驚く「存在感」というのは、一朝一夕になったものではない、90年の党史の積み重ねのうえにつくりあげられてきたものだということを、確信をもっていいたいと思います。

仮設住宅(団地)で新しい党支部がつくられた

 大内田 県議選の後、仮設団地で党支部がつくられたという話も聞きました。

 志位 最大の犠牲者を出した自治体は、宮城県の石巻市ですが、県議選で初議席を獲得したのち、当選した三浦新県議をかこむ「集い」を、すべての仮設住宅(団地)で開き、党員を迎え、党支部をつくろうというとりくみを、この間、重ねてきたとのことです。これまで12カ所でひらいた「集い」には184人が参加し、入党者を27人迎え、仮設団地に新たに党支部が誕生した。参加した人たちから、党名問題や入党の条件、資格について質問が出るなかで、三浦県議が丁寧にこたえ、こう訴えたそうです。

 「社会を大本から変えようという共産党が大きくなってこそ、世の中をよくすることができます」、「仮設住宅の、また被災者の切実な願いを、市政、県政、国政につなげて、問題を一つ一つ解決しながら、街を復興していくためには共産党の支部がどうしても必要です。この仮設にも、ぜひ支部をつくりたい。そのために、ぜひ入党してください」

 仮設住宅で、復興の希望を語り、日本の未来を語り、党をつくる。最大の犠牲者を出した石巻市からのうれしいニュースを、私も感動を持って聞きました。

 中央としても、困難な中で入党し、党支部をつくった新しい同志たちの初心が生かされるよう、県、地区とも協力して、援助の手をつくしたいと考えています。

 大内田 勇気が出てくる話ですね。

大震災と原発事故――復興をいかに持続的な国民的課題としてとりくむか

 小木曽 大震災と原発事故からの復興は、今年も引き続き大切な課題ですね。

 志位 その通りです。被災者の生活と生業(なりわい)の再建ができてはじめて復興といえる。それはどの分野でもこれからだと思います。この大震災を過去の問題にしない、決して「風化」させない。復興をいかに持続的な国民的課題としてとりくむか、ここがとくに今年は大切になってくると思います。

 原発事故については、政府は「収束宣言」を出しましたが、だいたい原子炉の状況もわからないわけでしょう。圧力容器の底の温度が100度以下になっているというけれども、溶けた燃料は圧力容器を突き抜けて格納容器までいっているわけですから、どういう状態かわからないわけです。そして放射能被害への対応はまったくできていないわけです。これで何が「収束」か。怒りが福島県を中心に広がっているのは当然です。

 大内田 「収束」といって過去のものにしてしまう。

 志位 そうです。あたかも事故は終わったかのように扱い、除染・賠償に責任をもってとりくまない。原発固執政策をすすめる。その下心が見え見えです。

 全国各地で「原発ゼロ」をめざすたたかいがわきおこり、福島では「オール福島」の声となりました。除染と賠償と「原発ゼロ」のたたかいは、今年がいよいよ大切です。

 引き続き、被災地への全国的支援、全国的たたかいを心から呼びかけます。

 小木曽 私たち「しんぶん赤旗」も全力でとりくんでいきたいと決意しています。

いまに生きる力(2)――野党外交

韓国との交流の進展――朝鮮王朝儀軌の返還にかかわって

 小木曽 いまに生きる「党史の力」という点では、野党外交の問題もあると思います。

 志位 昨年の外交活動では、韓国との関係が進展しました。韓国は、日本に最も近い隣国です。この国との関係が進展したことは、たいへん大事だと思っています。

 この間、朝鮮王朝儀軌(ぎき)の返還が実現しました。儀軌というのは、朝鮮王朝の時代に王室や国の行事を絵画をまじえて記録したものです。NHKで放映中の韓国の歴史ドラマで「イ・サン」というのがありますでしょう。私はファンで必ず見ているのですが(笑い)。あのドラマでは、「図画署」(トファソ)という王室の絵画を担当していた部門が出てきて、そこにソンヨンというヒロインが登場します。あの「図画署」などで作ったのが儀軌です。儀軌というのは韓国の人々にとっては、民族の宝ともいうべきものです。

 それを1922年に、朝鮮総督府が持ち出して、日本に持ってきた。22年といえば、日本共産党創立の年ですけども、朝鮮では、それまでの「武断統治」といわれた憲兵による強権一本やりの植民地支配が「3・1独立運動」(1919年)で破たんし、「文化政治」といわれる懐柔と強権をおりまぜた支配に代わった時期だったのです。

 「文化政治」の時期に、朝鮮の伝統をつかんで植民地支配に利用しようということで儀軌を奪ったというのが経過です。奪われた儀軌には、日本によって1895年に殺害された閔妃(ミンピ=明成皇后)の葬儀の記録や、第26代国王の高宗(コジョン)が1897年に皇帝に即位したときの儀式の記録なども含まれていました。

 この返還を実現するうえで、緒方靖夫さん、笠井亮さんをはじめ、日本共産党議員団が力をつくしてきたのです。

「日本共産党と連帯すべきだとの方へ意見がまとまった」

 大内田 委員長も昨年11月には2回目の訪韓をなさいましたね。

 志位 はい。最初の訪韓は2006年でしたが、今回は日韓議連の一員としての訪韓でした。李明博(イ・ミョンバク)大統領、金滉植(キム・ファンシク)首相、朴熺太(パク・ヒテ)国会議長などと懇談する機会がありました。

 さまざまな懇談の場で、「朝鮮王朝儀軌の返還を喜んでいます」といいますと、韓国側から口々に、「日本共産党の協力に感謝します」という言葉が寄せられました。

 私は、「文化財は元あったところに戻すのがユネスコ条約の原則であり、植民地支配の清算という歴史問題にとりくむことは、日本の政党として当然の責任です」と応じましたが、どこでもそういう感謝の気持ちが寄せられたのがとても印象的でした。

 私が宿泊したホテルに、儀軌還収委員会の慧門(ヘムン)事務局長が訪ねてこられて、夜に1時間ほど懇談しました。そこでも日本共産党がこの問題で果たした役割に対して感謝がのべられるとともに、『儀軌 取り戻した朝鮮の宝物』という著書をいただきました。これがそのときいただいた韓国語版の本です。韓国政府が青少年向け推薦図書ということにしたそうです。日本語訳も出版されており、その本もいただきました。

 大内田 儀軌を取り戻す過程が書かれているのですか。

 志位 そうです。儀軌返還にいたる全過程が、たいへんリアルに、また詳細に書かれています。そして、この本のなかでは、日本共産党が、儀軌の返還で「決定的な役割」を果たしたと書いてあるんですね。

 緒方さんがこの問題でおこなった2007年5月の国会論戦の議事録が紹介されています。それから、緒方さんと笠井さんが「しんぶん赤旗」でおこなった2007年8月の対談の記録も紹介されています。

 小木曽 それはすごい。(笑い)

 志位 たいへん印象深く読んだのは、この問題に日本で最初にとりくんだ政党が日本共産党だったことについて、こう書かれていることです。「問題提起した議員らが日本共産党であるのがいささか複雑であったが、大体において日本共産党と連帯すべきだとの方へ意見がまとまった」。こうして、この問題での日本共産党との交流が始まっていくんです。韓国では、北朝鮮の関係で、「共産党」への警戒感というのは強いものがありました。それでも、「日本共産党と連帯すべき」だというところに意見がまとまっていった。

日本共産党への見方が韓国社会で大きく変わりつつある

 小木曽 委員長が訪韓された翌月の12月には、笠井さんが招待をうけて訪韓し、この儀軌の問題で熱烈な歓迎を受けたと聞きました。日本の政党で招待されたのは共産党だけだったという話でした。

 志位 そうです。韓国政府の招待で、韓国政府主催の儀軌の返還式典に参加したということです。金宜正(キム・ウィジョン)儀軌還収委員会共同議長は、式典のあいさつのなかで、笠井さんを、「儀軌返還のためにもっとも尽力してきた功労者」「あまりに熱心にしてくれるので、前世はこちらの人ではないか」(笑い)と紹介したそうです。

 笠井さんは、国王である高宗のひ孫にあたる李源(イ・ウォン)王室文化院総裁とも懇談し、日本共産党の歴史と路線を説明すると、うなずいて聞きながら、「あなた方とは心を開いて話し合える」「今後も協議していきたい」と応じたとのことでした。

 多くの出会いを通じて、「実際の姿に触れて日本共産党を初めて『発見』した」、「日本共産党を好きになった」、「『共産』という言葉の意味が初めてわかった」との声が韓国の多くの方々から寄せられたということです。

 私も2006年の訪韓、昨年の訪韓を通じて、実感しているのですが、韓国の方というのは、真実を知ると一途(いちず)なんです。

 小木曽 韓国歴史ドラマ「トンイ」を見ていてわかります。(笑い)

 志位 いったん、いろいろな誤解がとけて、日本共産党に信頼をもったら、とことん信頼を寄せてくれるということを感じます。そして2006年の最初の訪韓、昨年の私や笠井さんの訪韓などを通じて、日本共産党への見方が韓国社会で大きく変わりつつあるということを実感しています。

90年の「党史の力」が、アジアでも世界でも絶大な力を発揮する

 大内田 韓国との交流が一段と太くなった。その背景には何があるのでしょうか。

 志位 ここでも、「党史の力」というのを強く実感します。

 一つは、日本共産党が、朝鮮への植民地支配に厳しく反対し、朝鮮独立の運動に連帯してたたかった党だということです。こういう党は日本で日本共産党しかありません。

 もう一つは、日本共産党が、旧ソ連による覇権主義とたたかい、北朝鮮の無法行為にも厳しく批判をつらぬいてきた自主独立の政党であるということです。

 韓国というのは、「反共」が強かった国ですけれども、この二つの歴史を語りますと、垣根がなくなる。誰とでも心が通じ合う。「もっとも親しい友人が日本共産党だ」ということになるということを、何度も私は体験してきました。

 先日の訪韓では、李明博大統領と懇談し、あいさつを交わす機会がありました。私が、「昨年(2010年)10月に日本共産党は日韓議連に加盟しました。全議員が加入しており、私は副会長を務めています。日本共産党は、崩壊した旧ソ連の党などとは違う平和的で民主的な政党ですから、ご安心ください」と語りますと、李大統領は笑顔で応じて、「日本共産党の志位委員長から日韓議員連盟に参加されたとのお話を聞き、ありがとうございます。韓国としても歓迎します」と語りました。

 韓国とは、「従軍慰安婦」問題など、清算すべき過去の問題が残されています。この問題は、昨年末の日韓首脳会談でも大きな問題になりました。過去に正面から向き合い、過ちを清算する。そうしてこそ、真に未来に向けた友好が可能になります。

 90年の「党史の力」というのは、私たちの野党外交で、アジアにおいても、世界においても、絶大な力を発揮する。これがこの間、この分野にとりくんできた私たちの実感です。ここに確信を持って、アジア諸国、世界の国々との友好と交流をさらに発展させていく年にしていきたいと思っています。

 大内田 戦前・戦後のたたかいが野党外交にもしっかり生きているということを聞いて、本当にうれしく思うし、確信を持ちました。

綱領路線の半世紀でどこまで来たか

「第1の躍進」――自主独立、綱領路線にもとづく全党の努力が実った

 小木曽 それでは「第3の時期」、1961年に綱領路線を決めたあとの半世紀の流れについてうかがいたいと思います。

 志位 さきほどお話ししたように、正確な路線をつくれば一路前進というわけにいかないんですね。この半世紀というのは、私たちが「政治対決の弁証法」と呼んでいる曲折と波乱と試練が続いた半世紀でした。この半世紀に私たちは2度の躍進のピークとともに、2度の反共作戦を経験しています。

 「第1の躍進」は、1960年代の終わりから70年代にかけての日本共産党の国政選挙での連続躍進でした。ちょうど私が入党したころですが、1972年の総選挙では、日本共産党は563万票、14議席から39議席、野党第2党に躍進しました。自主独立の路線と綱領路線を確立し、1960年代に、それを力に、国内政治でも、国際政治でも、党が打って出た。その全党の努力の結実が、こういう形で実りました。

 革新自治体が全国に広がり、そこに暮らす人口は日本の総人口の約43%になりました。その流れは、国政にも及び、1967年につくられた革新都政から始まった老人医療費無料化が、1973年には国の制度にもなるなど前向きの変化が起こりました。

反共デマキャンペーンと、1980年の「社公合意」

 小木曽 そのあとに反共作戦がやってくるのですね。

 志位 そうです。この流れに恐れおののいた支配勢力は、1976年に、「共産党=人殺し」とする「春日質問」――これは衆議院の本会議の壇上から民社党の春日一幸委員長がおこなったデマ攻撃でしたけれども――、これに始まる「日本共産党は暴力と独裁の党だ」という反共キャンペーンを開始します。

 わが党はこれに正面から大反撃をくわえます。反共キャンペーンはわが党の前進に障害を持ち込むものでしたけれども、それだけでは日本共産党を封じ込めることはできません。政治戦線の再編成が必要になってきます。そこで支配勢力が打った手というのは、社会党・総評ブロックを反革新の側に取り込む革新分断作戦でした。

 その決定的転機になったのが、1980年の社会党と公明党との間で結ばれた日本共産党排除、日米安保条約容認の「社公合意」でした。いま「社公合意」を読み直してみますと、たとえば「原発容認」なども書いてあるのですよ。社会党がもっていた革新的要素を、ローラーをかけるように根こそぎ押しつぶした協定だということがよくわかります。

 小木曽 その結果、「共産党をのぞく」があらゆる分野に持ち込まれました。

 志位 1980年を境に、日本共産党をのぞく事実上の「オール与党」体制がつくられました。国会運営も、「共産党をのぞく」というものに変わっていきます。革新自治体は、社会党の脱落という形で次々とつぶされ、地方自治も「オール与党」体制に変えられていく。国民運動のいろいろな分野でも分断が持ち込まれ、一時期は統一開催された原水爆禁止世界大会も分裂させられます。

 日本共産党は、この反動攻勢に対して不屈に立ち向かいました。統一戦線運動では、1980年の第15回党大会で、「日本共産党と無党派との共同」という大方針を提唱して、1981年には全国革新懇が結成され、今日大きく発展しています。

 しかし、この反共作戦のもとで、わが党は国政選挙での後退、停滞を余儀なくされます。そういう点では苦しい時代が続きます。

反共作戦は「反国民作戦」でもあった

 志位 私は、この時期をとらえるさいに、この反動攻勢の時期に破壊的な影響を受けたのは、わが党だけではない、日本の政治全体、国民全体が大被害を受けたということが、たいへん大事な点だったと思うのです。

 大内田 反共作戦は、「反国民作戦」でもあったということですね。

 志位 その通りです。実はこの指摘は、不破委員長(当時)が、1999年の党創立77周年記念講演会で、「現代史のなかで日本共産党を考える」と題する記念講演のなかでのべたものですが、私はこの講演を聴いて、この箇所がとても強い印象として残っています。「そうか。その通りだ」とヒザを打つ思いで聞いたことを思い出します。

 大企業中心の政治という点でみますと、1970年代までは、物価問題、公害問題などが噴き出して、「大企業中心主義に反対する」ということは、野党ならどの党も、ある程度はのべたものでした。ところが、1980年代に入ってすっかり様子が変わる。1980年に「臨時行政調査会(臨調)設置法」が成立して、「臨調行革」路線が始まります。

 小木曽 「メザシの土光」ですね。(笑い)

 志位 土光経団連会長、財界が直接指揮をとって、国民の暮らしへの総攻撃を始めます。まず標的にされたのは社会保障でした。1982年には老人医療費の有料化、84年には健康保険の本人1割窓口負担の導入、85年には年金の給付カットと保険料の引き上げなど、あらゆる分野で社会保障の破壊が開始されます。

 そのうえ「福祉のため」といって、国民のごうごうたる批判に逆らって、1989年には消費税の導入を強行する。

 小木曽 日米軍事同盟の問題でも大きな変化がありましたね。

 志位 そうです。アメリカいいなり政治という点でも、80年代に入って質が変わってきました。1970年代までは、日米安保の問題といえば、在日米軍基地の問題が中心でした。米軍基地をベトナム侵略などに使わせない、というのがたたかいの焦点でした。ところが、80年代に入りますと、基地問題だけではなくて、中曽根内閣のもとで、「日本列島不沈空母」「三海峡封鎖」「シーレーン防衛」が叫ばれるなど、米軍と自衛隊の共同軍事作戦が問題になってきます。

 こうして、内政でも外交でも、反共作戦は「反国民作戦」と一体のものだったのです。そういうもとで、日本共産党をのぞく「オール与党」体制と国民との矛盾が、どんどん累積していく。そして、そのもとで、反共・反動の「時流」にくみせず、国民の立場で筋を貫く党への新たな注目と共感が広がっていきます。

「オール与党」体制の破たんと、「二大政党づくり」の開始

 志位 新たな躍進の予兆が現れたのが、80年代の最後の時期で、1989年4月の消費税導入によって、「列島騒然」という状況になり、千葉県知事選挙、名古屋市長選挙などで、日本共産党の推薦候補が、あと一歩という大善戦をする。躍進の予兆が起こります。マスコミでも、「地殻変動」という言葉が盛んに使われました。

 小木曽 ところが、その直後、参議院選挙の直前の89年6月に、中国で天安門事件が起きて、これが大きな逆風になっていったわけですね。

 志位 そうですね。このときは躍進は予兆で終わり、実現しませんでした。天安門事件を利用した反共大キャンペーンがおこなわれ、それに続くソ連・東欧崩壊を利用したいわゆる「体制選択論」攻撃で、たいへんな逆風が吹き荒れた。

 この逆風のさなかにおこなわれた1990年の第19回党大会で、私は書記局長に選任されたのですが、最初の時期というのは、下りのエスカレーターを逆に登っているような、頑張っても、頑張ってもなかなか党の前進に結びつかないという、そういう逆風とのたたかいだったことを思い出します。

 しかし、どんなに外国ネタで日本共産党を攻撃しても、支配勢力と国民との矛盾は解決されません。それは深いところでいよいよ広がっていく。そこに、ゼネコン汚職、金権腐敗政治が噴き出してくる。自民党政治への怒りが沸騰しました。

 1980年に始まる「オール与党」体制というのは、一見強そうですが、失敗したら大変なのです。「受け皿」となるのは、日本共産党しかない。たいへんにもろい体制だったのです。支配勢力は、この体制ではもう限界だということを感じ始めた。

 そこで彼らは新しい反共作戦を始めます。それは、日本の政党戦線を無理やり「二大政党」の枠にはめ込もうという動きです。1993年に自民党が分裂し、「自民か、非自民か」という大キャンペーンが始まる。94年には小選挙区制が導入される。こういう一連の動きのなかで、「二大政党づくり」が開始されました。

 この体制が完成すれば、片方が失敗しても、別の片割れが「受け皿」となって、悪い政治が安泰になるし、なによりも日本共産党を抑え込める。こういう思惑で始まりました。「二大政党づくり」の走りがこの時期です。

「第2の躍進」――筋をつらぬいてきた日本共産党への期待が大きく広がる

 大内田 委員長が初めて国政選挙に挑戦された1993年の総選挙は、本当にたいへんな選挙でした。私も、お料理の村上昭子先生(故人)と、委員長のところに応援にいったのをおぼえています。(笑い)

 志位 ありがとうございます(笑い)。93年の総選挙は、私が旧千葉1区で初めて国政に挑戦した選挙でしたが、二重の逆風のなかでの選挙でした。「体制選択論」攻撃の逆風と、「自民か、非自民か」という逆風です。マスコミからも「当選は無理」といわれましたが、地元のみなさんの大奮闘、全党のみなさんのご支援によって、なんとか押し上げていただいた。

 選挙戦のさなかにNHKのインタビューに出演すると、司会者の方は、「共産党はカヤの外になるではないですか」と聞いてくる。そこで私は、「『カヤの外』というけれど、『カヤの中』こそ問題です。そこにあるのは古い腐った政治ではないですか。そんな汚いカヤには頼まれても入りません」(笑い)と答えたことを思い出します。

 しかし、支配勢力の「二大政党づくり」のこの最初の試みは、あえなく失敗に終わります。細川政権など「非自民政権」と呼ばれる勢力は、八つの党派の寄せ集めで、まとまりがなかった。その内部矛盾によって自壊していく。そして、自民党政権が復活します。その後なんとか、自民党に対抗する形での「二大政党」をつくろうと、「新進党」という党が結成されますが、この党は住専問題で国会の中で「座り込み」をやったあげく大失敗し、自ら政党を解散する。

 「二大政党づくり」の最初の試みが大失敗するもとで、筋を貫いてきた日本共産党への期待が大きく広がって、日本共産党の「第2の躍進」が始まります。

 この「第2の躍進」は、「第1の躍進」の峰をはるかに越えるもので、1996年の総選挙では、726万票の得票をえて大きく躍進する。98年の参議院選挙では820万票と、史上最高の峰を更新しました。

 苦しいなかでも、国民の立場で筋を貫くことがいかに大切かを痛感したものでした。「汚いカヤ」に入らなくてよかったと本当に思いました。(笑い)

 小木曽 本当にそうですね。(笑い)

熱い政治問題での党の値打ちとともに、「日本改革の方針」を大きく示す

 志位 この時期の躍進を振り返ってみますと、1996年の住専問題、97年の消費税増税問題など、熱い政治問題、その時々の矛盾の焦点で、党の値打ちを光らせるたたかいとともに、日本共産党の「日本改革の方針」を大きく示していった。「日本共産党はどういう日本をつくるか」ということを正面から語り抜いていった。これが、躍進の大きな力になったというのは、たいへんに大事な教訓だったと思います。

 この時期に、私たちは、1997年に第21回党大会、2000年に第22回党大会を開いて、「日本改革の方針」をまとまった形で発展させ、それはやがて新綱領に結実することになりました。

第2の反共作戦の発動――反共謀略から本格的な「二大政党づくり」

 小木曽 「第2の躍進」のあとに、第2の反共作戦が本格的に発動されるということになるわけですね。

 志位 第2の反共作戦も、はじめは反共キャンペーンから始まりました。2000年6月の総選挙では、空前の反共謀略ビラがまかれました。またもや「暴力と独裁の党」というデマ攻撃ですが、今度は「名無しの権兵衛」、出所不明の謀略ビラに訴えた点で、反共攻撃の質は一段と悪くなりました。私も選挙戦を走りながら、街の空気が一気に冷え込んだことを思い出します。

 それに続いて、今度は財界が直接乗り出しての、本格的な「二大政党づくり」がすすめられます。それが発動されたのは、2003年の総選挙でした。今度は寄せ集めではなく、「民主党」という政党を財界が仲介までしてつくりあげて、「自民か、民主か」という枠内に国民の選択を押し込めるという大キャンペーンがすすめられました。

 私たちにとって、この反共作戦による逆風は、それまでのどんな反共作戦をも上回る逆風だったと思います。国政選挙でも後退・停滞を余儀なくされました。

「二大政党づくり」のもとで、暮らしと経済、政治、社会はどうなったか

 志位 ただ、ここでもしっかり見ておきたいのは、この反共作戦が「最強・最悪」のものであるとともに、最悪の「反国民作戦」だったということなのです。

 小木曽 たしかにこの10年間を振り返りますと、暮らしも、外交も、いよいよがたがたにされたという感じです。

 志位 そうです。自公政権がすすめた「構造改革」路線というのがあります。とくに「小泉構造改革」がひどかったのですが、社会保障費の自然増から毎年2200億円を削減する、無慈悲な切り捨て政策がすすめられました。老人医療費は、定額負担から1割負担に引き上げられる。健康保険は2割から3割負担に引き上げられる。「100年安心」の名で、年金の給付カットと、保険料引き上げの大改悪が強行される。そして、お年寄りを「うばすて山」に追いやる後期高齢者医療制度が導入される。社会保障はずたずたになりました。

 さらに、「人間らしい労働」が破壊されていきました。この動きは、1995年の日経連の報告で、“これからは正社員を減らし、非正規社員を増やす”という大号令がかかったのが始まりなのですが、それを受けて、1999年に労働者派遣法が改悪されて派遣労働が原則自由化になる。2004年には製造業まで派遣労働が拡大される。「人間らしい労働」が破壊され、人間をモノのように「使い捨て」にするという事態が、社会を覆っていきます。

 この時期の数字を紹介しますと、2000年と2010年で比較して、民間給与の総額は216兆円から194兆円に減っている。賃金がどんどん減る社会になりました。非正規労働者の率は26%から36%に増えました。一方で、大企業の内部留保は、172兆円から260兆円まで膨らみました。

 外交を見ますと、自衛隊の海外派兵が日米安保条約という枠を超えて、全世界に広がりました。アフガン戦争、イラク戦争への自衛隊の参戦は、それぞれ「特措法」をつくってやったわけですけれど、安保条約の条文に関係なく、「日米同盟」という4文字で、世界中への派兵がおこなわれる。そのなかで、米軍基地問題もいよいよ深刻化して、沖縄の新基地建設の問題、横須賀の原子力空母配備など、アメリカの世界戦略の前線基地として基地問題の矛盾もいっそう深刻になっていく。

 さらに、政治と経済だけでなく、社会も大被害を受けました。「自己責任」論が横行するもとで、社会にもいろいろな衰退現象が起こります。心の病が、「メンタルヘルス」という言葉とともに社会に広がります。自殺する方がうんと増えていったのも本当に心が痛む話です。まさに反共作戦と同時並行で、空前の国民的災厄が広がったというのがこの10年間だったのです。

 小木曽 反共は、国民生活破壊、平和破壊の道であり、社会までも壊していった。

 志位 その通りです。

奮闘いかんでは「第3の躍進」を現実のものとする可能性が

 大内田 「こんな自民党政治はごめんだ」という声が澎湃(ほうはい)として湧き起こり、「政権交代」という結果になりました。

 志位 「政権交代」にかけた国民の期待というのは、「自民党政治を変えてほしい」の一点にありました。この国民の圧力がありましたから、発足当初の民主党政権には、国民の要求を部分ではあれ反映した前向きの要素もふくまれていました。

 しかし、それはこの2年半でことごとく裏切られた。「民主党の自民党化」が完成したというのが野田政権です。しかし、「民主も自民もまったく同じ」ということになりますと、「二大政党による政権選択」という、支配勢力がたくらんだ枠組みそのものが成り立たなくなるわけです。同じものだったら、どちらかを選べといったって、選びようがない、どっちもダメということになりますから。昨年12月の4中総で、「『二大政党づくり』の破たん」とのべたのはこのことなんです。

 実際、「二大政党」の基盤の大崩壊が全国どこでも始まっています。これまで、自民党、民主党を支持してきた人々が両方に幻滅して、新しい政治を求めるという激動が始まっています。政党の力関係の劇的変化の可能性が生まれています。そして、「二大政党づくり」のもとで、国民生活と平和への攻撃に対して、国民とともに頑強にたたかいぬいた日本共産党への新たな注目と期待が広がっています。「原発ゼロ」、TPP(環太平洋連携協定)反対、米軍基地問題などいろいろな分野で、政党の垣根を越えた「一点共闘」が生まれ、新しい共同が広がっています。頑張りいかんでは「第3の躍進」の時期をつくりうる新しい情勢が生まれているというのが、この半世紀のたたかいをへて、いま私たちが立っている地点だと思います。

 小木曽 この可能性を実らせて、「第3の躍進」を現実のものにしたいですね。

 志位 はい。本当にそう思います。

「歴史的岐路」にたつ日本

支配勢力は、反共作戦をやるたびに、自らの基盤を掘り崩す

 小木曽 ずっとお話を聞いてきて、反共作戦というのは「反国民作戦」だと。それだけにやればやるほど、われわれにとっては厳しいけれど、同時に矛盾を深めるということが非常によくわかりました。

 志位 そうですね。支配勢力は、反共作戦をやるたびに、自らの基盤をどんどん掘り崩し、行き詰まりをひどくしている。私は、それが、半世紀の「政治対決の弁証法」の一つの明確な結論ではないかと思います。これを繰り返しやることによって、ついに政治も経済も社会もボロボロにしてしまったというのが現状ではないでしょうか。

 野田内閣にいたって、それが行き着くところまで行ったという観があります。この内閣は、ここまで行き詰まった日本をどうするのかについて、国民に希望ある展望は何一つ示していないでしょう。米国と財界にいわれるまま、沖縄に米軍新基地を押し付けようとする。消費税増税と社会保障の「一体改悪」の道を突きすすむ。TPP参加にむけた暴走を開始する。まったく先のない道を、やみくもに暴走しているというのが、この内閣です。一方、自民党は、民主党に「もっとしっかりやれ」という立場から、いろいろないちゃもんをつけるという程度のもので、こちらにも展望は何もない。

 支配勢力が、ここまで国民に明日を語れなくなっているのは、戦後の日本政治においてもかつてないことではないでしょうか。

反動的逆流を許さない――このたたかいをつうじて新しい共同を

 小木曽 ただ、それだけに相手も必死なわけですね。いろいろな危ない動きが起こっていることは見逃せません。

 志位 どんなに行き詰まっても、反動的打開の危険はある。そのことを私たちは絶対に過小評価できません。昨年末、野田政権は、消費税増税と衆院比例定数削減を一体に進める方針を決めましたが、最悪の大増税と民主主義破壊をセットで進める暴挙を、絶対に許さないたたかいは焦眉の課題となっています。

 さらに、橋下・「大阪維新の会」による「大阪都構想」「教育基本条例案」「職員基本条例案」の「独裁3点セット」を許さないたたかいは、大阪だけでなく、日本の民主主義を守るたたかいとして、力をいれてとりくみたいと決意しています。この問題では、民主党も、自民党も、公明党も、中央段階の動きをみると、橋下市長が国会に行ったら、みんな橋下・「維新の会」にすりよる、みじめな「腰ぬけ」ぶりをさらけだしています。そういうときだけに、日本共産党が、広範な保守の方々も含めて、民主主義を守る大黒柱として、広大な共同を広げて、いまのたくらみを打ち破れば、ここでも日本共産党への新しい信頼が広がる条件があるわけです。現に広がりつつあるということを、「しんぶん赤旗」のシリーズ「列島激変」でも生き生きと描いています。

「危機」と「希望」が交錯――日本共産党の頑張りどころの情勢

 大内田 本当にそういう意味では、「歴史的岐路」ということを実感します。私たちの頑張りどころだと思います。

 志位 そうです。「二大政党づくり」の破たんという新しい情勢のもとで、日本は文字通り「歴史的岐路」にたっていると痛感します。

 この行き詰まりを打開する道は、私たちが「二つの異常」と特徴づけている「異常な対米従属」、「大企業・財界の横暴な支配」にメスを入れる、日本の政治のゆがみに根本からメスを入れる改革をおこなう以外にありません。古い政治の土俵のうえで、ちゃちな「改革」をやってみたところで、悪くなるだけで、にっちもさっちもいかないのです。

 そのことが、多くの国民の認識となれば、日本の政治は大きく変わる。まさに「歴史的前夜」にあります。私たちの頑張りいかんで、日本共産党の新たな前進・躍進をかちとる条件は大いにある。頑張りが足りなければチャンスを逃がす。ここをしっかりとらえて、力をつくしたい。

 4中総報告で、私は、「政治と社会の危機と新しい時代への希望が交錯する激動の情勢」といいましたが、文字通り、「危機」と「希望」が交錯する、日本共産党の頑張りどころだと思います。

「希望」を現実のものとするカギはどこにあるか

 小木曽 「希望」を現実のものとするうえで、カギはどこにあるでしょう。

 志位 4中総では、今年予想される総選挙を、「民主連合政府にむけた新しいスタートを切る選挙にしよう」とよびかけ、「すべての小選挙区での候補者擁立をめざす」ということを決めました。4中総決定にもとづく討論が全国でおこなわれていますが、「革命的気概をよびおこされた」という反応が、各地から寄せられていることは、心強いかぎりです。民主連合政府というのは民主主義革命を実行する政府ですから、革命をめざして新たなスタートを切ろうという提起なのです。

 「希望」を現実のものとするうえで、私は、三つの点をいいたいと思います。

 一つは、間違った政治への批判とともに、私たちの日本改革のビジョンを大いに語るということです。1990年代後半の躍進の時代は、その点での重要な教訓を残しています。政治の閉塞(へいそく)状態、政治不信が強いだけに、これを打開する展望をどれだけ説得力をもって語れるか。21世紀の今日にそくした「日本改革の方針」を、新しい綱領を土台にまとまって示し、それを広く国民のなかで語ることに、大いに力を入れてとりくみたい。くわえて、資本主義をのりこえる未来社会の展望も大いに語りたいと思います。

 二つは、あらゆる要求をとらえた国民運動を大いに発展させることです。震災復興と「原発ゼロ」のたたかいが引き続き大事になってきますが、同時に、今年は、TPP問題、普天間問題、消費税増税と社会保障の問題、こういう一連の国政の熱い問題で、いよいよその是非が国民的に問われる年にもなります。そういうさまざまな問題で、保守の方々も含めた「一点共闘」を重層的に発展させながら、新しい統一戦線を築き上げる意気込みで、国民運動を大いに発展させたい。

 三つは、強く大きな党をつくることです。客観情勢の劇的進展にくらべて、日本共産党の自力が足りない。ここに私たちの最大の問題があります。この弱点を何としても打開したい。今年の7月15日の党創立90周年をめざす「党勢拡大大運動」のとりくみは、昨年来のとりくみで、まだ端緒ですが、新たな前進がはじまっています。とくに、職場と若者のなかでの党員拡大で、新しい前進の芽が全国各地で生まれているのは心強いことです。

「しんぶん赤旗」読者のみなさんに心から感謝し、協力をお願いします

 志位 それから「しんぶん赤旗」日刊紙を値上げさせていただきましたが、読者のみなさんのご協力、全党の努力で陣地を維持しています。今年はさらに本格的前進に転じたいと考えていますが、値上げにもかかわらず日刊紙の購読を続け、また新たに読者になっていただき、このかけがえのない新聞を支えてくださっているみなさんに、心からの感謝を申し上げるとともに、今後ともご協力をいただくことを願っています。

 90周年の歴史に学び、「党史の力」を生かし、綱領と党史を語り、躍進の年にするために全力をつくす決意です。

 小木曽 読者のみなさんには、私からもお礼を申し上げます。赤旗編集局としても、この新聞をさらに魅力ある新聞として発展させるために、頑張りたいと思います。

 小木曽、大内田 今日はどうもありがとうございました。

 志位 ありがとうございました。


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