2014年8月6日(水)
主張
広島・長崎被爆69年
原爆症認定制度の抜本改定を
アメリカが1945年8月6日に広島、9日に長崎に原子爆弾を投下してから69年になります。
原爆がもたらしたもの―。それが何かを教えてくれる一つが、被爆者の全国組織である日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の基本文書「原爆被害者の基本要求―ふたたび被爆者をつくらないために」(84年発表)です。
人の世とはいえない
「原爆は、広島と長崎を一瞬にして死の街に変えました。赤く焼けただれてふくれあがった屍(しかばね)の山。眼球や内臓のとび出した死体。黒焦げの満員電車。倒れた家の下敷きになり、生きながら焼かれた人々。髪を逆立て、ずるむけの皮膚をぶら下げた幽霊のような行列。人の世の出来事とは到底いえない無残な光景でした」
この年のうちに広島で約14万人、長崎で約7万4千人の命が奪われたといいます。奇跡的に助かった被爆者もその後、原爆症で次々と命を落としていきました。今まで生き延びてきた被爆者も、心と体に原爆の深い傷を負い、苦しみに耐え続けています。
「(あの時)わが子や親を助けることも、生死をさまよう人に水をやることもできませんでした。人間らしいことをしてやれなかったその口惜しさ、つらさは、生涯忘れることができません」「原爆は、人間として死ぬことも、人間らしく生きることも許しません」
日本被団協は今、原爆症認定制度の抜本改定を求めています。
同制度は、被爆者の病気や障害が原爆による放射線に起因し医療を必要とすると厚生労働大臣が認定した場合、その病気の医療費全額を国が負担するとともに、「医療特別手当」を支給するものです。
しかし、その認定にあたり、爆心地から被爆地点までの距離や病気の種類などに厳しい基準が設けられてきました(例えば、がんの場合で爆心地から約3・5キロ以内など)。このため、爆心地から離れた場所で被爆した「遠距離被爆者」や、原爆投下後、市内に入った「入市被爆者」など数多くの被爆者が認定を却下されてきました。しかも、却下された被爆者が起こした裁判で原告勝訴の判決が次々出ているのに、政府は制度の抜本的な見直しに背を向け続けています。
日本被団協は、司法に断罪されている現行制度は廃止し、「被爆者健康手帳」(被爆時に一定の地域にいた人などに交付)を持つ被爆者全てに「被爆者手当」を支給した上、病気や障害の程度に応じて加算する制度を創設するよう求めています。
いつ原爆症が出るかと日々思いわずらい、就職や結婚などで差別に苦しみ、子どもを産むことにも恐怖を感じ、わが子や孫が体を壊せば、「原爆のせいではないか」と自分を責める―。こうした被爆者の苦悩に報いるためにも、制度の抜本改定は緊急の課題です。
「国の償い」の実現を
現行の被爆者援護法を改正し、戦争によってもたらした原爆被害への国の償いと核兵器廃絶を目的に明記し、原爆死没者への補償などを行うことも切実です。政府が原爆症認定制度の改善に背を向けるのも、国の償いを拒否していることが背景にあります。来年は被爆70年です。被爆者の平均年齢は80歳に迫り、残された時間はわずかです。被爆者の願いに応える運動と世論をさらに広げる時です。