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2015年10月20日(火)

『スターリン秘史 巨悪の成立と展開』 第4巻を語る(下)

独ソ戦。覇権主義の二つの焦点

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(写真)語り合う(左から)石川、不破、山口の3氏

 山口 第18章、第19章はポーランド問題を軸に追跡しています。独ソ戦を戦いながらスターリンがポーランド問題で三つの目標を持ち、それを達成した経過を明らかにしています。こういう研究はこれまでなかったものですね。

ポーランド制覇の三つの目標

 不破 「三つの目標」というのは、スターリンがまとめて提起したものではなく、彼の行動から客観的に浮かび上がってくるものです。

 第一は、ドイツとの秘密協定(1939年)でソ連が併合した東部ポーランドをソ連領として認めさせること。第二は、その代償として、ドイツの一部をポーランドに割譲して、ポーランド領を西方に拡大すること。第三は、復活した新ポーランドをソ連の支配下におくこと。ドイツとの秘密協定で得たものより、はるかに大きいソ連勢力圏の大拡張でした。

 スターリンは、大戦の終結前に、この三つの目標を全部達成するのです。最大の難関は、当時ロンドンにいたポーランド亡命政府にこれを受け入れさせることでしたが、それを自分ではやらず、説得役はチャーチルにやらせました。文字通りの外交的“荒業(あらわざ)”です。

 石川 そういう点での狡知(こうち)の発揮はものすごいですね。

ヒトラー打倒の大義をかかげて

 不破 ソ連にとってポーランドは非常に難しい国でした。39年にヒトラーと組んでポーランド国家を消滅させたのが、ほかならぬソ連ですから。一方、イギリスはポーランドと同盟関係にあり、そのことからドイツとの戦争に踏み切った国です。つまり、イギリスにとって、独立ポーランドの再興はこの戦争の最大の大義というべき問題でした。

 ところが、41年6月に独ソ戦が始まった時、スターリンは、英ソ交渉の最初の段階から、東部ポーランドをソ連領と認めよ、という要求をイギリスに突きつけるのです。

 その年の12月、イギリスのイーデン外相がモスクワを訪問しました。ドイツ軍の猛攻からモスクワを守りぬいた直後の時期でしたが、英ソ会談でスターリンが最大の議題としたのは、援助問題ではなく、戦後ヨーロッパの国境問題、なかんずくポーランドにかかわる領土問題でした。イーデン外相も驚いたのですね。

 石川 スターリンは、ソ連の役割なしにはヒトラーを倒せないというイギリス、アメリカの弱みを見事に逆手にとっていますね。英米に援助を“お願いする”というのでなく、ソ連の要求を受けいれるのは当然、という姿勢が、ここにもはっきり出ています。

 不破 ヒトラーを倒すという大義があるからなんです。スターリンが強気に出られるのは。“ヨーロッパでヒトラーと戦っている唯一の国・ソ連を応援するのは当然じゃないか”といわれると、英米側も受け入れざるを得ないわけです。

 山口 『秘史』では、「スターリンは、その急所をにぎって、反ファシズム世界戦争を自分の覇権主義的野望に結びつける方策を、頑強に追求した」と指摘しています。

“カチンの森”事件を逆手にとって

 山口 “カチンの森”事件で、ポーランド側の告発を逆手にとった反転攻勢もすごいやり方ですね。

 不破 大戦中の最大の“荒業”かもしれませんね。事件の解説をちょっとしておきますと、39年9月のソ連のポーランド侵攻のあと、抑留されたポーランド軍将校の行方がわからないことが、ポーランドの関係者のあいだでは以前から大きな問題になっていました。そのことで、43年4月、ドイツのゲッベルス宣伝相が、“ソ連に虐殺された数千人のポーランド将校の遺体がロシア西部のカチンの森で発見された”と発表したのです。ソ連を窮地に追い込む衝撃的な告発でした。

 これはまぎれもないスターリンの犯行で、事件の半世紀後でしたが、ソ連政府自身がその事実を認めました。しかし、スターリンは、これを逆手にとって、ポーランド問題の局面を変えてしまいます。ポーランド亡命政府が国際赤十字に調査を求めたことにたいし、“ヒトラーのデマに踊らされた”と抗議し、断交してしまったのです。

 イギリスもアメリカも、東欧で何が起こっているかほとんど情報を持たないまま、亡命政府の無分別な行動を批判する立場をとり、スターリンに同調する方向に傾きます。驚くべき逆転劇でした。

 石川 ルーズベルト米大統領までが、ソ連の主張に道理があるとして、ポーランド亡命政府の「誤り」を批判したという話は知りませんでした。

 山口 ここに光をあてた研究も初めてではないでしょうか。大戦外交史の隠れた内幕の一つですね。

ワルシャワ蜂起とソ連軍

 山口 44年8月1日にワルシャワ蜂起が起きます。ドイツ占領下のポーランド市民が、亡命政府が国内に残していた軍事組織「国内軍」とともに立ちあがったんですね。この蜂起をソ連が援助しなかったことは知っていましたが、そこにスターリンの、「国内軍」一掃の狙いがあったことには驚きました。

 不破 もしソ連軍が援助して蜂起が成功し、ワルシャワに進撃したソ連軍が世界注視のなかで蜂起軍と握手する、こんなことになったら、ソ連もいや応なしに亡命政府側の「国内軍」を同盟者として認めざるを得なくなります。しかし、こんなことは、スターリンが絶対に認めるわけにゆかないことでした。

 亡命政府の基盤である「国内軍」の絶滅は、ソ連軍の基本方針でした。ワルシャワ以外の地域でも、こんなことが起きていたとのことです。ソ連軍がドイツ軍を打ち破ってその地域を解放して、「国内軍」が姿を現すと、最初の段階では歓迎して握手しあったりする、しかし次の段階では、「国内軍」の部隊は解体され、将校などは収容所に送り込む。このように、戦後のポーランド支配のために、「国内軍」などは根こそぎ取り除く、これがソ連の方針でした。

 だから、スターリンにとっては、ワルシャワでも、「国内軍」がドイツ軍によって壊滅された後でソ連軍が乗り込むということは、当然のやり方だったのでした。

 石川 最近読んだ本でも、ワルシャワ蜂起をソ連が見捨てた理由は、“カチンの森”事件で亡命政府と仲たがいしたからという説明でした。しかし、もっと奥深い、ポーランドを支配しようとする領土拡張主義があったわけですね。

 不破 スターリンは、ワルシャワ蜂起以前に、ポーランドのルブリンに臨時政府(ポーランド国民解放委員会)を樹立していました。チャーチルも、亡命政府こそが正統の政府だと主張するわけにはゆかず、ソ連製の臨時政府に亡命政府から数人の閣僚をいれて、これを統一政府とするという譲歩に追い込まれます。こうして、ポーランドをソ連の勢力圏に組み込むというスターリンの最後の目標も、チャーチルとルーズベルトの公認のもとで実現してしまったのですよ。

チャーチル、バルカンの権益分割を求める

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 石川 44年10月、ワルシャワ蜂起壊滅の1週間後に、チャーチルがモスクワでスターリンと会談しますね。ここでチャーチルは有名な「百分率表」を持ちだしますが、これはソ連の攻勢に対する抵抗だったのでしょうか。

 不破 いや、チャーチルの頭には、もうポーランドはない、狙いはギリシアだったのですよ。「百分率表」というのは、バルカン5カ国についてソ連とイギリスがどれだけの権益をもつかの割合をパーセントで示した表で(写真)、チャーチルがその場でスターリンに渡したのです。スターリンは青鉛筆で印をつけて、チャーチルの手に戻す。“沈黙のうちに”進行した一幕でした。

 この表は、他のバルカン諸国でのソ連の権益を大きく認める一方、ギリシアだけはイギリスの勢力圏だとされていたのが特徴でした。実は、ギリシアでは、ドイツからの解放闘争が進み、解放勢力は国土の大部分を解放して、すでに臨時政府までつくっていました。そこへイギリス軍が、ドイツ軍と戦ったわけではなく、ドイツ軍の撤退後に乗り込んできたのです。

 そのギリシアがイギリスの勢力圏に属することを、スターリンに認めさせる。ここにチャーチルが「百分率表」を持ちだした最大の狙いがありました。

 チャーチルは、スターリンの東ヨーロッパ支配を容認することと引き換えに、ギリシア支配を要求した。イギリスの小さな覇権主義のために、スターリンの巨大な覇権主義を正当化してしまったわけです。

 山口 「百分率合意」は、その後の協議でも場面場面で、チャーチルのソ連批判をたしなめるのに使われますよね。

ユーゴの自主的な解放闘争を恐れたスターリン

 山口 第20章はユーゴスラヴィアです。不破さんの今回の本格的な研究で、ユーゴ解放戦争が、ドイツという侵略者への抵抗にとどまらず、独立と自由をかちとり旧体制を打ち破る国民解放闘争だったという特質と、解放が成功に至った戦略的なとらえ方がよく分かりました。

 不破 ここにも、スターリンの覇権主義は、たいへん陰湿な形で現れました。

 ユーゴスラヴィアでドイツ軍にたいする武力解放闘争が始まったのは41年6月ですが、早くも42年には、ドイツ、イタリア両軍30個師団以上がユーゴ戦線にくぎづけになるような発展を遂げます。これはスターリンが待望した「第二戦線」がバルカンに開かれたと言ってもよいほど、大きな意義をもつことでした。

 この闘争は、本来ならスターリンにとって有力な同盟者となるものでした。それなのに、スターリンはこの戦線を無視し続け、解放闘争への援助を請われても拒否の態度を取り続けるのです。その根底には、自主的な革命勢力にたいするスターリンの恐れがありました。ソ連軍がドイツ軍を撃破して乗り込む前に、自主的に立ち上がった解放勢力が勝利して革命が起きたら、その国をソ連の衛星国にすることができなくなる。それが怖いのですね。

 山口 不破さんは、スターリンの冷たい対応を、ディミトロフの『日記』とチトー側の資料を使って克明に明らかにしています。ユーゴの党が直面した問題を歴史的に見る上で欠かせないものだと思います。

 不破 この章では、私がユーゴの党大会(1982年)で手に入れた資料をかなり使いました。解放戦争中にユーゴの共産党や国民解放委員会などが出した主要公的文書をまとめた文献集や、解放戦争史などなどで、これらがなければこの章は書けませんでした。

 ただ、これらはみな、戦後決裂したソ連・ユーゴ関係の回復後に出されたもので、ソ連が一番嫌がるだろうものは省いたようです。たとえば、ドイツ軍との激戦の中でのチトーの電報、「われわれを助けることができないなら、邪魔はしないでくれ」というディミトロフ宛ての電報は、収録されていませんでした。

 石川 『スターリン秘史』には、そうした資料が一つひとつ丁寧に載せられています。長くスターリンの覇権主義を問題意識を持って追いかけてきたことの蓄積だなと感心させられています。

 不破 解放闘争の歴史を調べていて、チトーが独ソ戦の開始前に、独ソの衝突を予見していたことに驚きました。独ソ関係の具体的な状況はチトーの知るところではないのですが、国際的な環境を分析するなかで、事態が独ソの衝突の方向に進んでいることを読み取り、そこに解放闘争発展の国際的な根拠を求めた、というのです。

 自主的な運動も大衆的支持もないポーランドをおさえこんでソ連の勢力圏に引き込む、一方、自主的な解放闘争で独立と社会変革の事業をやり遂げようとするユーゴスラヴィアには冷酷な対応をとおす、手法はまったく対照的ですが、ここには、世界大戦下のスターリンの覇権主義の代表的形態、二つの焦点と呼んでもよいものがあったと思います。(おわり)


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