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2016年4月4日(月)

『スターリン秘史 巨悪の成立と展開』第6巻を語る(上)

ヨーロッパ戦略の誤算。活路をアジア「第二戦線」に

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 日本共産党の不破哲三・社会科学研究所所長の『スターリン秘史―巨悪の成立と展開 第6巻 戦後の世界で』をめぐって不破さん、石川康宏・神戸女学院大学教授、山口富男・社会科学研究所副所長が語り合います。2014年11月に1巻が刊行され、今回の第6巻(16年3月)で完結しました。


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(写真)左から石川、不破、山口の各氏

コミンフォルムとはなんだったのか

 山口 第6巻は、第2次世界大戦後のスターリンの覇権主義の展開を新たな資料を使って描き、さまざまな謎が解明されています。まず第26章はコミンフォルム結成の問題ですね。その国際的な背景とスターリンの狙いはどこにあったのですか。

米ソ対決のもとでの路線転換

 不破 米英ソ連合で反ファッショ戦争に勝利し国際連合もできた、引き続きこの連合が戦後の体制の骨組みになってゆくというのが、戦後の国際情勢について各国の共産党がとっていた大方の見方でした。

 ところが、1947年3月に、アメリカ大統領トルーマンが、ソ連との政治的対決を宣言する「トルーマン・ドクトリン」を出したことで、現実の世界情勢はガラッと変わるのです。イタリアやフランスでも47年5月には、政府から共産党が排除されました。

 しかしどこの共産党も、それを重大な情勢の変化だと見ないでのんきに構えている。トルーマン・ドクトリンを具体化したマーシャル・プラン(米国主導の「ヨーロッパ復興計画」47年6月)もソ連が反対したのに、東欧諸国で反対したのはユーゴスラヴィアとブルガリアだけ。「これではだめだ」というのが、コミンフォルムを創設したスターリンの第一の動機でした。

 47年9月、ヨーロッパの主要9カ国の共産党を集めて会議を開き、そこで、いまや運動の根本路線は変わった、大戦中の米英ソ連合路線からアメリカ帝国主義との国際的対決の路線に転換せよ、こういう意思統一をしたのです。

コミンフォルム設立に込めた二つの狙い

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(写真)スターリン秘史第6巻

 不破 これは、表向きのことで、その裏で、スターリンは、コミンフォルム設立にさらに大きな狙いをつけていました。

 第一の目的は、各国共産党に自由に指図できる体制づくりです。43年に解散したコミンテルンでは、幹部会や書記局、書記長などの公式の機関があり、何か決めるにはこれらの機関を通す必要がありました。こんどつくったコミンフォルムには、そういう機関などないのです。「恒久平和と人民民主主義のために」という機関紙を出すことにしてソ連が編集権を握れば、スターリンの思うままに各国共産党に指図できる。ここに大きな狙いがありました。

 第二は、その仕組みを使って、東ヨーロッパ内部の“異質分子”であるユーゴ共産党を絶滅し、スターリン絶対の体制を敷くこと、ここに大目的がありました。コミンフォルムの本部をユーゴに置いたのも、ユーゴ内部への干渉の拠点づくりの意義を持ちました。

 この狙いは最初はひた隠しでした。第1回会議では、スターリンはしきりにユーゴを持ち上げ、ユーゴの代表をあおってフランス、イタリアを痛烈に批判させるなど、コミンフォルムの主役扱いしました。しかし、これも、ユーゴを他の党から浮きあがらせる仕掛けづくりで、翌48年6月の第2回会議は、一転してユーゴ批判の会議となり、コミンフォルムからの除名を決議する。いよいよ本音をむきだしにしたのです。

チトー打倒作戦と「大テロル」の再現

 山口 そのあとに、東ヨーロッパでのでっちあげ裁判が始まり、「帝国主義の手先」「スパイの党」だと指弾して、チトー政権打倒にのりだすのですね。

 不破 スターリンがこの時期に東ヨーロッパに広げたのが、1930年代の「大テロル」と同じ手法によるテロ裁判でした。ハンガリーのライク外相を“ユーゴと結んだアメリカ帝国主義の手先だ”と言って裁判にかけて処刑し、コミンフォルムの第3回会議(49年11月)では、それを材料に「ユーゴは、東ヨーロッパの破壊を狙うアメリカの手先、人殺し集団だ」とやる。ディミトロフの片腕だったブルガリアのコストフ副首相も、ディミトロフの死(49年7月)の直後、「チトーや英米帝国主義の手先」とされ逮捕、処刑されました。

 石川 スターリンがユーゴ攻撃をはじめたあとも、ディミトロフは、違った態度を取ったとのことですが…。

 不破 スターリンがチトー攻撃を開始した後でも、ディミトロフは、ユーゴの幹部を励ましたり、チトーの誕生日に祝電を送ったりしました。でもスターリンはディミトロフには手を出さない。これにはスターリン流の計算があったと思います。

人民民主主義のてん末

 石川 スターリン自身がそれまで東ヨーロッパに広めてきた「人民民主主義」の国家論をひっくり返すのですね。「社会主義への移行には多様な道がある」というのはチトー主義だと言って。これは同じ時期のことですか。

 不破 『ディミトロフ日記』には、スターリンが「人民民主主義の国ではプロレタリアートの執権なしで社会主義に移行できる」「一定の条件下では立憲君主制の下でも可能だ」とか言明していた記録がいくつも出てきます。当時、「プロレタリアートの執権」というのは、マルクス本来の意味でなく、ソ連型の一党専制体制を意味しました。

 ところが、それが47〜48年に大転換します。一つの契機は敗戦国のブルガリア、ハンガリー、ルーマニアが連合国との講和条約(47年2月)を結び、国際社会復帰の“関門”を通過したことです。その後は何をやっても平気と言わんばかりに、各国で反対党の絶滅作戦をやって、事実上の一党制になる。そうなると、もういままでのような「人民民主主義」論は無用な、むしろ有害なものとなってきます。

 そこで、スターリンは、これまでの「多様な道」論をお蔵入りさせるのですが、その理論的「転回」も役目を担ったのはディミトロフなんです。彼は、48年12月のブルガリアの党大会で人民民主主義論を取り上げようとして、自分がまとめた見解をスターリンに届け、そのあとでスターリンと会うと、これまでとは百八十度違う“新理論”を吹き込まれたのです。それが、「人民民主主義はプロレタリアート執権の一形態」だという“新理論”でした。ディミトロフが党大会でその“新理論”を発表すると、これが、たちまち東ヨーロッパに広がり、新しい理論的モデルとなって、「多様な道」論が消えてゆくことになりました。

 コミンテルン以来、国際的な名声を得ていたディミトロフは、こういう点でもスターリンにとって利用価値があったわけで、多少のことには目をつぶったわけも、このあたりにあったのではないでしょうか。

ヨーロッパ戦略の決算――アジアに目を向ける契機に

 山口 不破さんはこの時期のスターリンのヨーロッパ戦略を“決算表”にしていますね。

 不破 “決算表”はスターリンに有利なものとはなりませんでした。

 第一に、スターリンの東ヨーロッパ制圧作戦の強行は、アメリカが49年4月にNATO(北大西洋条約機構)を結成し、ヨーロッパに軍事的にのりだす道を開きました。

 第二に、チトー政権打倒作戦はスターリンの大誤算、完全な失敗でした。つぶせると思っていたユーゴは危機を乗り越え、東ヨーロッパにスターリンの手が届かない自主的な国をつくりだした。チトー打倒のための強引なやり方が、他の国にもさまざまな亀裂を生みました。世界はスターリンの思うようには動かなかったということです。ユーゴが自主独立で団結したことは、当時の運動で群を抜いていたんですね。

 スターリンは、東ヨーロッパをソ連の強固な勢力圏にできず、ここでアメリカとの衝突が起きたら勝ち目がないことを自覚していました。

 山口 それがアメリカ帝国主義との対決の主戦場をヨーロッパ以外に移すために「第二戦線」を開くという新たな戦略になっていったと指摘しています。目を向けられたのがアジアなんですね。第27章から舞台が中国に移ります。

中国革命とスターリン

 不破 中国に対するスターリンの対応は4段階あって、第1段階は第2次世界大戦終結から、国民党政権が共産党と本格的な内戦を始める46年6月までの10カ月間です。

 スターリンの考えは、ブルジョア政権下の西ヨーロッパのように、共産党は国民党政権の下で活動すればいいというものでした。蒋介石が毛沢東に持ちかけた重慶会談(45年8月)の際も、スターリンは毛沢東を強引に交渉に臨ませました。蒋介石政権を受け入れよという意味でした。

 ところが蒋介石は、この会談中に、米軍の輸送力を借りて40万〜50万人の部隊を中国の主要地点に移動させ、内戦に踏み切る体制を整えたんです。

 第2段階は、内戦の開始から共産党の勝利の展望が明確になるまで。スターリンは、毛沢東が“訪ソして相談したい”と何度言っても、友好同盟条約を結んでいる国民党政府をおもんぱかって断るんです。一方、東北地方においては共産党と解放軍を厚遇、援助し、党の責任者の高崗(こうこう)を内通者に仕立てました。ヤルタ会談(45年2月)の密約で旅順、大連、南満州鉄道などの権益を手に入れていたので、内戦の結果がどうなろうと東北地方はソ連の勢力圏にする布石を打っていたのです。

 49年1月、すでに共産党の勝利が決定的な状況で、スターリンは毛沢東に調停案を持ちかけます。どうやら、揚子江を境に北は共産党、南は国民党に統治させる「南北朝」構想だったようです。そう疑った毛沢東は拒否しました。

 第3段階は、共産党の勝利が明確になって以降です。勝利後は国民党との関係はなくなり、中国共産党との関係を築くことになるわけですが、どんな関係を結べばいいか、スターリンの腹が固まっていない過渡期です。スターリンは49年1〜2月にソ連共産党の政治局員ミコヤンを訪中させ最初の両党会談を行い、その後、中国共産党指導部の劉少奇(6〜8月)、つづいて新中国建設後に毛沢東がモスクワを訪問しスターリンと会談します(12月〜50年2月)。

 山口 スターリンと毛沢東との会談は、迷走状態が続いたようですね。

 不破 東ヨーロッパ諸国のような従属関係か、チトーのような反逆の危険があるか、革命後の中国とのあいだでどういう関係が成り立つか、スターリン自身がつかめないんですね。しかし、翌50年1月早々スターリンは方針転換します。そこからが第4段階です。スターリンが毛沢東の宿舎に乗り込んで秘密会談を行い、独立国家同士の関係を確立する中ソ友好同盟相互援助条約の調印(同2月)につなげました。

 石川 50年1月早々の方針転換の背景には、何があったのでしょう。

 不破 新中国が49年10月に成立したあと、イギリスなど資本主義国の間でこれを承認する動きが表面化し始めたことが大きかったでしょうね。早く中ソ関係を確立しないと、「第二戦線」構想に足をふみだせなくなる。スターリンに、東ヨーロッパ諸国とは違った関係を中国と結ぶことを決意させた背景には、そうした事情が大きく働いたと思います。

『毛沢東選集』の編集に全面協力の約束

 山口 『毛沢東選集』の編集が決まったのも、毛沢東とスターリンとの関係では大きな出来事でしたね。

 不破 毛沢東はこの訪ソで、自分の革命論の正当性をスターリンに認めてほしかったのでした。スターリンは最後の非公式会談で、中国での革命路線についての自分の誤りを認め、中国革命の歴史にそった『毛沢東選集』の編集を促します。これは、毛沢東の路線こそが中国革命を勝利に導いた革命理論であることをスターリンが公的に承認することを意味しました。

 スターリンは毛沢東の要請にこたえて、『毛沢東選集』の編集援助のためにソ連から理論家を派遣することまで約束するのです。これらは、毛沢東路線の正しさをスターリンが公然と認めたことですから、毛沢東にとっては、なによりもうれしい成果だったのではないでしょうか。

 また、『選集』ができる前に、毛沢東の哲学論文「実践論」をソ連共産党の理論誌『ボリシェビキ』に掲載しました。これは、毛沢東にスターリンに次ぐ第2の理論的指導者という国際的位置づけを与えたものでした。

 (つづく)

これまでの てい談掲載日

 これまで5回分の掲載日は次のとおりです。

第1巻 2015年1月13日

第2巻 同年4月29日(上)、30日(下)

第3巻 同年7月7日(上)、8日(下)

第4巻 同年10月19日(上)、20日(下)

第5巻 2016年2月8日(上)、9日(下)


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