2017年11月26日(日)
禁止条約 あなたがいたから
第2回原水爆禁止世界大会で発言 故渡辺千恵子さん
核兵器廃絶へ 扉開いた被爆者たち
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11月4日、長崎市の延命寺で、被爆者・渡辺千恵子さんの半生を描いた合唱と語りによる組曲「平和の旅へ」が演奏されました。核兵器禁止条約の採択と、公演250回を記念する墓前報告会でのこと。作曲・指揮した園田鉄美さん(65)は語ります。
「千恵子さんも生前、とても喜んでくれました。『この曲が私の代わりに語ってくれる』と言って」
今年7月7日。国連会議で核兵器禁止条約が採択されました。長崎原爆被災者協議会副会長の横山照子さん(76)は言います。
「私は亡くなった被爆者に真っ先に語りかけました。あなた方がいたからできたのです。あなたたちが命をかけて語ってくれたから、と…」
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「みじめなこの姿を見てください!」
下半身不随で、母スガさんに抱きかかえられて演壇に上がった被爆者・渡辺千恵子さん(当時28歳)。千恵子さんも母も体が震えたといいます。1956年、第2回原水爆禁止世界大会(長崎)で3000人の参加者がこの言葉に涙しました。
長崎で被爆し、脊髄を損傷。足腰は棒のように細り、寝たきりで過ごしました。10年間の暗く閉ざされた日々。世界大会に参加したのは、長崎原爆乙女の会ができ、外の世界とつながり始めて間もないころでした。
「いくたびか死を宣告され、いくたびか死のうとさえ思った私でしたが、母の愛にはどうしても勝つことができませんでした」
「原爆犠牲者はもう私たちだけでたくさんです」「世界の皆さま、原水爆をどうかみんなの力でやめさせてください」。母娘は、涙と感動と拍手の嵐に包まれました。
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「千恵子さんはこう言いたかったのでしょう。『人は私をみじめだと思うでしょう。でも違うの。こんな姿にしたのは誰ですか?』。みじめだといわれる姿を見せて『こんなつらい思いは私だけでいい』と訴えたのです」
そう語る横山さん。30歳のころから一緒に活動してきました。自らも4歳で家族とともに被爆。妹は長い入院生活の末、44歳で亡くなりました。「私はみじめじゃない!」と叫んだ妹の言葉がいまもよみがえります。
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核兵器廃絶に人生をかけた被爆者たち。核兵器禁止条約への扉を開いた、その姿をシリーズで紹介します。
車いすで国内外へ出向いた千恵子さん
「明るく前向き」と評される渡辺千恵子さん。入院中に会った版画家の上野誠さんは、こう書いています。「そこにみたものは、頭と胴ばかりの一個の生体でした」「これがこの人の肉体の条件だったのかと、粛然とならざるをえませんでした」(『原爆の長崎』)
「千恵子さんは必ず、長崎原爆青年乙女の会の会議に出席しました。そのたびに誰かが抱っこして移動したんです」と横山照子さん。谷口稜曄(すみてる)さん、青年乙女の会会員さんら、原爆の痛みを全身に刻んだ被爆者も交代で抱きかかえました。
普通に座ることができず、車いすを使うためにはアキレス腱(けん)を切断し、ゆがんだ脊椎を削る手術が必要でした。76年、激痛を伴う手術とリハビリを乗り越え、語り部として車いすで国内外へ出向きました。
バリアフリーではなく、大変な苦労でした。その後もニューヨーク、西ベルリン、ユーゴスラビアなど各地を訪れました。
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「車いすに乗れるようになって間もない78年、スイス・ジュネーブでの軍縮国際会議で証言することになりました。私が説得役でした」。横山さんは目を細めます。
横山さんは移動の際の苦労をこう語ります。「集会のため東京で一緒に宿泊した時、下腹部にはったガーゼを取り換えるのを手伝いました。何年たっても深い傷から膿(うみ)が出る。足が不自由なだけじゃない。移動するのもこんなに大変なことなんだと知りました」
『長崎に生きる』(渡辺千恵子著)のあとがきで、元日本原水協事務局次長の安田和也さんはこうつづっています。「被爆から四七年経(た)っても六カ所の傷がジクジクと膿(う)んでいること、かさぶたができてもそれが破れてまた膿(うみ)が出るくり返しであること、原爆による苦しみは決して終わっていない」
長崎原爆松谷訴訟の証言から3カ月後の93年3月13日、千恵子さんは心不全のため亡くなりました。
「千恵子さんの命を削るような証言があったことを、忘れることはできません」(同あとがきから)
(手島陽子)
渡辺千恵子(わたなべ・ちえこ) 1928年生まれ。16歳で被爆。頭と足がくっついたエビのような姿で鉄骨の下敷きとなり、脊髄を損傷。数日後、腰から下の肉が腐りはじめ、母がカミソリで腐った肉をガリガリ削り、骨がむき出しになった部分もあったが、腐敗を食い止めて命をとりとめた。核兵器廃絶運動に生涯を投じる。64歳で死去。