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2024年5月16日(木)

「人間の自由」と社会主義・共産主義――『資本論』を導きに

学生オンラインゼミ 志位議長の講演(3)

第二の角度――「人間の自由で全面的な発展」

Q18ここでの「自由」の意味は、第一の角度の「自由」とは違った意味ですね?

未来社会における真の自由の輝きは、実はその先にある

 中山 つづいて第二の角度――「人間の自由で全面的な発展」についてお聞きします。志位さんは、昨年(2023年)11月の民青大会のあいさつで、ここでの「自由」という言葉の意味は、第一の角度の「自由」とは違った意味だと言われました。

 志位 第一の角度で使った「自由」――「利潤第一主義」からの自由は、他のものからの害悪を受けないという意味での「自由」です。そういう意味では消極的な自由ともいえるわけです。

 それに対して、第二の角度での「自由」――「人間の自由で全面的な発展」の「自由」は、自分の意志を自由に表現することができる、あるいは実現することができるという意味の「自由」です。そういう意味ではより積極的な自由ともいえます。

 日本共産党の大会決議が強調しているのは、未来社会――社会主義・共産主義社会における「自由」というのは、「利潤第一主義」からの自由にとどまるものではない。さきほど、「利潤第一主義」からの自由を実現しただけでも、「人間の自由」は素晴らしく豊かに広がるというお話をしました。しかし未来社会における真の自由の輝きは、実はその先にある。すなわち、「人間の自由で全面的な発展」のなかにこそある。本当の魅力は、まだまだこんなものではありませんよ、その先にこそありますよ、という組み立てになっているのです。

Q19「人間の自由で全面的な発展」とはどういう意味かについて、お話しください。

「各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件」となる社会を探求しつづけた

 中山 まず、そもそもここで言う「人間の自由で全面的な発展」とはどういう意味かについて、お話しください。

 志位 エンゲルスが亡くなる前年の1894年に、イタリアの社会主義者でジュゼッペ・カネパという人がエンゲルスに手紙を書いて、来たるべき社会主義社会の基本理念を簡潔に表現するスローガンを示してくださいと頼みます。

 エンゲルスは、カネパに返事を書いて、「未来の新しい時代の精神を数語に要約することはたいへんに難しい」と言いながら、マルクス、エンゲルスが若い時代の1848年に書いた『共産党宣言』の次の一節を紹介しました。(パネル14)

マルクス、エンゲルス『共産党宣言』(1848年)から

「各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件であるような一つの結合社会」

パネル14

パネル14

 「各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件であるような一つの結合社会」――これが社会主義・共産主義だということです。これはどういうことか。

 ここで「各人の自由な発展」という言葉が出てきます。人間というのは誰でも自分の中に素晴らしい可能性を持っている。ある人は芸術家になる可能性を持っている。ある人は科学者になる可能性を持っている。ある人はモノづくりの素晴らしい才能がある。ある人はアスリートになる可能性を持っている。人間は誰でも自分のなかに素晴らしい可能性を持っている。一つではなくいくつもの可能性を持っている。これが私たち科学的社会主義の人間観なのです。

 ところが、資本主義のもとでは、そういう素晴らしい可能性を持っていながら、それを実現できる人、伸び伸びと可能性を生かせる人は、一部の人に限られてしまう。もちろん資本主義のもとでも、そういう自分の可能性を発揮して、頑張っている人はたくさんいます。しかし、素晴らしい可能性を持っていながら、埋もれたままになってしまう人が、資本主義社会では少なくないことは事実でしょう。マルクス、エンゲルスはここを変えたいと考えた。どうしたらすべての人間に、「自由で全面的な発展」が保障されるような社会ができるだろうか。マルクス、エンゲルスはこのことを、初期の時期から亡くなるまで一貫して追求したのです。

 中山 ずっと追求していたんですか?

 志位 ずっとといって間違いないと思います。「人間の自由で全面的な発展」を可能にする社会を追求し続けるんです。

Q20「人間の自由」についてのマルクスの探求の過程をお話しください。

「自由に処分できる時間」こそ、人間と社会にとっての「真の富」

 中山 どうしたら「人間の自由で全面的な発展」が得られるか。マルクスの探求の過程をお話しください。

 志位 実は、今日のゼミに向けて、『資本論』と『資本論草稿集』を読み返してみて、私なりにいくつか新しく気づいた点もありましたので、今日は少しお話をさせてください。まず、ほんとうに粗々なものなのですが「略年表」をつくったので、これを見ながら聞いてください。(パネル15)

「人間の自由で全面的な発展」――マルクスの探求の過程

1845~46年 『ドイツ・イデオロギー』――分業の廃止

1851年 ディルクのパンフレットに出会う――「自由に処分できる時間」

1857~63年 『資本論草稿』――「自由に処分できる時間が奪われている」

1865年 『賃金、価格および利潤』――「時間は人間の発達の場である」

1867~94年 『資本論』――「真の自由の国」

パネル15

パネル15

 志位 マルクス、エンゲルスが最初に出した答えは、「社会から分業をなくせばいい」というものでした。

 当時、産業革命によって機械制大工業が発展し、労働者は機械による生産の一部に縛り付けられて生涯働かされていました。この分業こそが「悪の根源」だ、分業をなくせば、人間が自由に発展できるようになるだろう。彼らは最初にこう考えた。

 マルクス、エンゲルスは初期の時期(1845年~46年)に『ドイツ・イデオロギー』という労作を書きます。これは、彼らが生きている間には出版されないで、「鼠(ねずみ)どもがかじって批判するまま」(マルクス)にされており、2人が亡くなった後に出版されるのです。『ドイツ・イデオロギー』では、共産主義社会について、「個人個人の独自な自由な発展がけっして空文句ではない社会」という、『共産党宣言』と同じ特徴づけが行われていますが、それを実現するために「分業の廃止」という構想がのべられています。そこにはこんな言葉が出てきます。

 「私がまさに好きなように、朝には狩りをし、午後には釣りをし、夕方には牧畜を営み、そして食後には哲学をする」

 分業を廃止して、まさに好きなように何でもする人間になる、そういう社会に変えればいい。そうなれば「個人の自由な発展」ができるだろう。こうした牧歌的な構想を描くのです。『ドイツ・イデオロギー』は、2人が「史的唯物論」の考え方を初めてまとめたという点で画期的意義をもつ著作でしたが、経済学については本格的に研究する前の段階に書かれたものでした。「分業の廃止」という構想は、間もなく不可能だということが分かってきます。どんな社会になっても分業は必要になります。

 つづいて、1848年~49年に、ヨーロッパを覆う革命が起こります。マルクス、エンゲルスは、革命に参加するわけですが、革命は敗北に終わり、その後、2人はロンドンに居を移します。

 マルクスは、1850年ぐらいから、資本主義が当時最も発達していた国、イギリスの首都ロンドンで、経済学の研究を本格化させます。マルクスは当時、世界中の書物が最も集中していた大英博物館に毎日通って、マルクスが座る席が決まっていたそうですけれど、そこで『資本論』の準備となっていく膨大なノートをつくっていきます。その研究の中で、マルクスは万人が十分な「自由に処分できる時間」を得ることこそ社会主義・共産主義社会のカギだということを突き止めていきます。

 中山 時間に注目したのですね。

 志位 そうです。彼は、「自由に処分できる時間」という言葉をたいへん重視して使っています。その経過について、日本共産党社会科学研究所所長の山口富男さんが詳細な研究を発表しています(『経済』24年5~7月号)。それによると、1851年に、マルクスは、大英博物館でイギリスのチャールズ・ウェントワース・ディルクという評論家が匿名で出版していたパンフレットに出会います。このパンフレットは、1日の労働時間を12時間から6時間に短くすることを提起し、富とはこうして人々が得ることができる「自由に処分できる時間」だという主張を行っていました。

 当時は、匿名のパンフレットは多く発表されていたそうです。マルクスは、手に入るかぎりのものをすべて読むという徹底した勉強ぶりを貫いた人で、スミス、リカードウなどの著名な大家の経済学の研究はもとよりですが、匿名だろうがなんだろうが、大事だと思うものはみんなノートにしたんですね。パネルをご覧ください(パネル16)。これは匿名の(ディルクの)パンフレットからマルクスが行った抜粋のノートの写しです。

パネル16

パネル16

 中山 マルクスの字ですか?

 志位 そうです。1850年~53年に作成された「ロンドン・ノート」と呼ばれるノートのなかに収められています。びっしり書き込んだノートです。ノートの隅から隅まで、文字通りすべて無駄なく使っています。こういうものを1851年にマルクスは抜き書きしていた。

 その後、マルクスは1857年~63年の時期に『資本論草稿』をつくっていきます。『1857~58年草稿』、『1861~63年草稿』と二つの大きな草稿があります。これらの研究のなかで、マルクスは、資本主義の仕組みを徹底的に研究し、資本家による労働者の搾取の秘密、「利潤第一主義」について解明していきます。この解明をしていって、マルクスは、「労働者が資本家による搾取によって奪われているものは何だろうか」ということを、考え抜きます。

 マルクスは、ここであらためてディルクからの抜粋を検討しなおし、「自由に処分できる時間」という考え方を、自身の理論の根幹に据えていきます。この問題について、マルクスが『資本論草稿』の研究から導き出した結論は、大まかにいって次のようなものでした。パネルをご覧ください。(パネル17)

マルクス『資本論草稿』(1857~63年)の研究から

“搾取によって奪われているのは単に“労働の成果”――「モノ」や「カネ」だけではない。労働時間の全体が資本家のもとにおかれることで、本来、人々が持つことができる「自由に処分できる時間」――「自由な時間」が奪われている”“「自由に処分できる時間」こそ、人間と社会にとっての「真の富」である”

パネル17

パネル17

 こういう言葉が『資本論草稿』のなかに出てきます。マルクスは、「自由に処分できる時間」――一人ひとりの個人が、どんな外的な義務にも束縛されずに、自ら時間の主人公になって、自分の能力と活動を全面的に発展させることのできる時間こそ、人間と社会にとっての「真の富」だと考えたのです。

 中山 「真の富」という言葉はすごく重みがありますね。

 志位 ほんとうにそう思います。

Q21搾取によって奪われているのは「カネ」だけでなく「自由な時間」ということですね?

「自由な時間」を取り戻し、人間の自由な発展を可能にする社会を

 中山 搾取によって奪われているのは単に「モノ」や「カネ」だけではないということですね?

 志位 そうです。そこが肝心な点です。そこをマルクスは、すごく大事に考えていたと思います。マルクスは『資本論草稿』のなかで、搾取によって労働者は資本家から「自由に処分できる時間」を「横領」されていると――「横領」という言葉まで使って「自由な時間」を奪っていることを告発しているんです。

 たとえば労働者が1日12時間働かされたとします。そのうち、6時間が労働者が自分と自分の家族の生計費をまかなうために必要な価値を生み出す労働時間――必要労働時間であって、残りの6時間が必要労働時間を超える時間――剰余労働時間だとすると、1日の半分が搾取されているという計算になります。それではその半分で搾取されているものはいったい何だろうか。

 もちろん本来、労働者に支払うべき賃金が支払われてないわけですから、おカネが奪われている。不払い労働になっている。これはもとより重要な事実です。同時に奪われているのはそれだけではない、「自由な時間」が奪われている、ここに大きな問題があるとマルクスは考えた。

 これは若いみなさんにとっても、たいへんに切実な問題ではないかと思います。私は、東北のある大学の学生のみなさんの集まりにうかがいまして、いろいろなお話をした時に、こういう訴えがありました。

 「学費が高すぎます。奨学金が貧しすぎます。最低賃金が低すぎます。少しでも割高のアルバイトをやらなければなりません」「私は、深夜バイトをやっています」「私は、徹夜バイトをやっています」「勉強する時間が足らないのが一番の悩みです」

 こういう訴えが口々に語られました。ほんとうに痛切な訴えです。

 よく考えてみますと、奪われているものが「カネ」や「モノ」だったら、後で取り戻すことができます。しかし時間はそのとき1回きりしかないものです。だから時間ばかりは、いったん奪われたら取り戻しがきかないんです。かけがえのない、取り戻すことができない大切なものです。とくに若いみなさんにとっての「時間」は、私は、何物にも代えがたい宝のようなものだと思います。その「時間」を若いみなさんは奪われている。ここに一番の大きな問題があると、私は思います。

 マルクスは、『資本論草稿』の研究をつうじて、次のようなメッセージを訴えているのではないかと思います。

 “「自由に処分できる時間」は人間と社会にとっての「真の富」だ。奪われている「自由な時間」を取り戻そう。資本主義的搾取を乗り越えることで、「自由な時間」を大きく広げよう。人間の自由で全面的な発展を可能にする、自由な社会を開こう”

 これはマルクスがただ頭の中で考えたことではありません。当時のイギリスでは、工場法――国の法律によって労働時間短縮を勝ち取る運動が大きく発展していました。1848年に最初の工場法がつくられて10時間労働が法制化され、拡充されていきました。マルクスは、工場法がつくられて長時間労働を規制すると、その結果、労働者が変わる。労働者が肉体的に元気になり、知的な発達をとげる。さらに「自由な時間」を得て、社会的・政治的活動にも携われるようになる。社会を変える新しいエネルギーを得ていることに注目しました。

 こうして、マルクスは理論的な展望にとどまらず、実際の労働者のたたかいの前進のなかに、「人間の自由で全面的な発展」への展望を見たのだと思います。

 マルクスは、1865年、のちに『賃金、価格および利潤』と題する冊子として出版されることになる労働運動の活動家を前にした講演のなかで、こういう言葉を残しています。パネルをご覧ください。(パネル18)

マルクス『賃金、価格および利潤』(1865年)から

 「時間は人間の発達の場である」「思うままに処分できる自由な時間をもたない人間、睡眠や食事などによるたんなる生理的な中断をのぞけば、その全生涯を資本家のために労働によって奪われる人間は、牛馬にもおとるものである」

パネル18

パネル18

 これはすごい言葉であり、激しい言葉です。人間というのは、ただ食べて、寝て、働けばよいという存在ではない。みんな発達する要求を持っているし、権利を持っている。しかし、そのためには「自由な時間」が必要だ。どんなに素晴らしい可能性を持っていても、「自由な時間」がなければ、それは可能性で終わってしまう。すべての人間が、自分を自由に発達させることのできる「自由な時間」が保障されてこそ、人間が人間として生きられる社会になる。そういう世界を目指そうではないか。マルクスは、そういう思い込めて、この訴えをしたのだと思います。

Q22今の日本で、働く人は「自由に処分できる時間」をどのくらい奪われているのですか?

8時間労働に換算して、4時間18分が“奪われた時間”という推計も

 中山 今の日本で、働く人は「自由に処分できる時間」をどのくらい奪われているのですか?

 志位 いろいろな研究がありますが、今日、私が紹介したいのは、大阪経済大学名誉教授の泉弘志さんが行った推計です(剰余価値率)。2000年のデータをもとにした全産業の雇用者の推計ですが、これを8時間労働に換算しますと、必要労働時間が3時間42分。剰余労働時間が4時間18分になります。(パネル19)

パネル19

パネル19

 中山 剰余労働の方が多いんですね。

 志位 そうですね。8時間働いた場合、およそ4時間以上は、本来、労働者が持つべき「自由に処分できる時間」が資本家によって奪われていることになります。これは「サービス残業」という話ではありません。法律通りに働いていてもこういうふうになるということです。この比率は、産業や企業によっても違います。おおよその数字として頭に入れていただいて、これを取り戻すことができたら、どんなに未来が開けるかを楽しく想像していただきたいと思います。

Q23『資本論』では、「人間の自由」と未来社会について、どういうまとめ方をしているのですか?

「真の自由の国」は、「必然性の国」を越えた先にある

 中山 『資本論』では、「人間の自由」と未来社会について、どういうまとめ方をしているのですか?

 志位 マルクスは『資本論』で、『資本論草稿』の考察をさらに発展させ、まとまって展開しました。「人間の自由で全面的な発展」のために何が必要か。マルクスが最終的に得た結論は、「労働時間を抜本的に短くする」というたいへんに簡明な真理でした。社会主義・共産主義の社会は、労働時間の抜本的短縮を可能にする、そこにこそ「人間の自由で全面的な発展」の保障がある。マルクスが続けてきた未来社会論の探究の到達点が、『資本論』に書き込まれたのです。

 その叙述は、『資本論』第3部第7篇第48章「三位一体的定式」のなかに出てきます。『資本論』全3部のなかで、マルクスが自分の力で発刊できたのは第1部だけです。第2部と第3部は、マルクスが遺(のこ)した『草稿』を、エンゲルスが編集して発刊したものです。第3部のなかに書き込まれた未来社会論は、エンゲルスが編集したもので、びっしり書かれた、見出しもない、段落もない、そういう文章のなかに突然出てきます。不破哲三さんが研究を進めるなかで、マルクスの未来社会論の一番の核心部分をのべたものとして光を当ててきたものです。新版『資本論』では、エンゲルスの編集についての研究にもとづき、この部分は、第48章「三位一体的定式」の冒頭に移されています。パネルをご覧ください。これはそこでのべられていることを簡単な図にしたものです。(パネル20)

マルクス『資本論』から――二つの「国」とその関係

「真の自由の国」

人間が自由にできる時間
「人間の力の発展」自体が目的
労働日(一日の労働時間)の短縮が根本条件

「必然性の国」

本来の物質的生産のための労働時間
「窮迫と外的な目的適合性とによって規定される労働」

パネル20

パネル20

 ここでマルクスは、人間の生活時間を二つの「国」――「必然性の国」と「真の自由の国」に分けています。「国」という言葉が使われていますが、これは地域という意味ではありません。人間の生活時間を「必然性の国」と「真の自由の国」という独特の概念に分けたのです。

 まず「必然性の国」は、「本来の物質的生産」のためにあてられる労働時間だと規定されています。なぜそれを「必然性の国」と呼ぶのか。それはこの領域での人間の活動が、ちょっと難しい言葉ですが、「窮迫と外的な目的適合性とによって規定される労働」だからです。「窮迫」とは生活上の困難のことであり、「外的な目的」とは社会生活のうえで迫られるいろいろな必要のことです。そういうものに規定され、自分とその家族、社会の生活を維持するためにどうしても必要で余儀なくされる労働時間ということです。「窮迫」や「外的な目的」のために余儀なくされる労働は、人間の本当に自由な活動とは言えない。そこで「必然性の国」とマルクスは呼びました。

 ただ「必然性の国」には自由がないかというと、そんなことはない。マルクスは、社会主義・共産主義社会に進めば、自由な意思で結びついた生産者による労働は、自らの人間性に最もふさわしい労働となり、自然との物質代謝を合理的に規制するような労働へと大きな変化をとげる。貧困と格差、さまざまな労働苦、繰り返される恐慌、気候危機をもたらす環境破壊などもなくなっていく。そういう人間的で合理的な労働へと大きな変化をとげる。つまり、未来社会に進むことによって、「必然性の国」でも人間の活動に素晴らしい「自由」が開けてきます。

 そこまで論じておいてマルクスは、しかしそれでも、この労働が「窮迫」と「外的な目的」のために余儀なくされる、義務的な労働であることには変わりがない。だからそれは依然として「必然性の国」なのだとのべます。

 そして「真の自由の国」は、それを越えた先にあると言っています。すなわち人間がまったく自由に使える時間のなかにある。つまり自分と社会にとってのあらゆる義務から解放されて、完全に自分が時間の主人公となる時間。自分の力をのびのびと自由に伸ばすことそのものが目的になる――「人間の力の発展」そのものが目的になる時間。マルクスはこれを「真の自由の国」と呼び、この「真の自由の国」を万人が十分に持つことができる社会となることに、社会主義・共産主義社会の何よりもの特質を見いだしたのです。そして、「労働時間の短縮が根本条件である」という実に簡明な言葉で結んでいます。私は、マルクスが『資本論』でのべたこの言葉は、『資本論草稿』での「自由に処分できる時間」にかかわる研究を凝縮してのべたものだと思います。

 労働時間が抜本的に短くなって、たとえば1日3~4時間、週2~3日の労働で、あとは「自由な時間」となったとしたら何に使いますか。

 中山 私はフルート吹いてみたりとか、本を読んでみたりとか、そういうことしてみたいです。

 志位 なるほど。いろいろなことに使って自分の能力を高めようとしますよね。パネルをご覧ください(パネル21)。マルクスは『資本論』のなかで、労働者が本来「自由に処分できる時間」について、次のようにのべています。

「自由に処分できる時間」(マルクス『資本論』から)

 「人間的教養のための、精神的発達のための、社会的役割を遂行するための、社会的交流のための、肉体的・精神的生命力の自由な活動のための時間」

パネル21

パネル21

 人間は、十分な「自由に処分できる時間」を獲得したら、自分のなかに眠っている潜在的な力を自由に伸ばすために、そうした時間を使うでしょう。人間的教養を豊かに身につけて人格を全面的に発展させるために使うでしょう。科学や芸術など自身の精神的発達のために使うでしょう。ここで大切なことは、マルクスが『資本論』でのべているように、社会的役割を果たし、社会的交流を豊かに行い、社会的活動を通じて、社会のみんなが自身を豊かに発展させることも、人間にとって欠かせないということです。「人間の自由で全面的な発展」と言った場合に、個々人がそれぞれその力を発展させるだけではなくて、豊かな社会的交流のなかでその力を発展させるという面も欠かすことができません。

 それらをすべて含めて、人間のもっている潜在力が全面的に発揮されることになるでしょう。そして、「各人の自由な発展」が実現されることは、「万人の自由な発展」につながるでしょう。それは社会全体に素晴らしい力をあたえ、「必然性の国」を短くし、「真の自由の国」をさらに拡大していくことになるでしょう。

 こうして人間の自由な発展と、社会の自由な発展の、好循環が生まれてきます。私は、マルクスの未来社会論の一番の輝きはここにあると考えます。

Q24第一の角度の自由と、第二の角度の自由の関係について、踏み込んでお話しください。

「利潤第一主義」からの自由は、「人間の自由で全面的な発展」の条件をつくる

 中山 第一の角度の自由と、第二の角度の自由との関係について、踏み込んでお話しください。

 志位 相互に深い関係があります。

 まず、第一の角度の自由――「利潤第一主義」からの自由は、第二の角度の自由――「人間の自由で全面的な発展」の条件をつくります。

 どうして未来社会では労働時間を抜本的に短くすることが可能になるか。つぎの二つの点が重要です。

 第一に、「生産手段の社会化」によって、人間による人間の搾取がなくなると、社会のすべての構成員が平等に生産活動に参加するようになり、1人当たりの労働時間は大幅に短縮されます。さきほど、資本主義のもとでは、「本来、人々が持つことができる『自由に処分できる時間』――『自由な時間』が奪われている」「資本家によって横領されている」と言いましたが、労働者が資本家によって奪われた「自由な時間」を取り戻すことで、十分な「自由に処分できる時間」が万人のものになります。

 第二に、未来社会に進むことによって、資本主義に固有の浪費がなくなります。資本主義の社会は、一見すると効率的な社会に見えますが、人類の歴史のなかでこれほどはなはだしい浪費を特徴とする社会というのはないんです。繰り返される恐慌と不況は浪費の最たるものです。一方で大量の失業者がいる、他方で多くの企業が生産をストップしている、これは浪費の最たるものです。資本主義が、「利潤第一主義」のもとで「生産のための生産」に突き進み、「大量生産・大量消費・大量廃棄」を繰り返していることも浪費の深刻なあらわれです。その最も重大な帰結が気候危機にほかなりません。これらの浪費を一掃したら、それらに費やされている無用な労働時間が必要でなくなり、「真の自由の国」を大きく拡大することになるでしょう。

 こうして、「利潤第一主義」からの自由は、「人間の自由で全面的な発展」の条件をつくることになるといえるでしょう。

Q25「自由に処分できる時間」を広げることは、今の運動の力にもなるのではないですか?

「自由な時間」を拡大することは、資本主義体制を変える大きな力となる

 中山 「自由に処分できる時間」を広げることは、今の私たちの運動を発展させる力にもなると思いますが。

 志位 その通りですね。それがもう一つの大事な側面です。

 「真の自由の国」は、未来社会において飛躍的に拡大することになりますが、資本主義のもとではそれが得られないかといったら、そんなことはありません。たたかいによって広げていくことができます。私たちはいま、「8時間働けばふつうに暮らせる社会」を合言葉にして、労働時間短縮を求めるたたかいを進めていますが、これも「真の自由の国」を広げるたたかいです。そして「自由に処分できる時間」を取り戻し、広げていくことは、互いに交流しあい、団結を広げ、社会進歩の運動をすすめるうえで、決定的な力となります。民青の活動も「自由な時間」がないとできませんよね。

 中山 本当にそうですね。今でもみんなで頑張って時間をつくっているんですけど、もっと時間があったら、もっともっとたくさんのことができると思います。

 志位 そう。そこが大事なところですね。みんなが「自由な時間」を、資本主義の社会においても持つことは、この体制を変える一番の力になるんです。

 この点について、マルクスは『資本論』のなかで、イギリスの労働者階級が、工場法による労働時間短縮をかちとったことについて、“工場法は、労働者たちを自分自身の時間の主人にすることによって、彼らに政治権力の獲得に向かわせる精神的エネルギーを与えた”とのべています。

 つまり資本主義のもとでの「人間の自由で全面的な発展」にむけた「自由に処分できる時間」を獲得するたたかいは、「利潤第一主義」からの自由をかちとる社会変革のエネルギーになってきます。すなわち、第二の角度の自由――「人間の自由で全面的な発展」にむけて「自由な時間」を獲得することは、第一の角度の自由――「利潤第一主義」からの自由を実現する条件になってきます。

 このように、第一の角度の自由と、第二の角度の自由は、相互に条件となっており、深い関係があるということが言えるのではないでしょうか。(つづく)


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